何故、彼は自分なぞを我が家に呼んだのか。家の前にたどり着くまでに、結局答えは出せず。
 ビュウは呼び鈴に手を伸ばした。



 「ここ、お城から遠かったでしょう。わざわざよく来てくれたね、ビュウ」
 目の前の白髭を蓄えた老人は、先程から目線を合わせたり外したりを繰り返している。
 「わし、誘ってよかったって思ってる」
 「今からそんな調子で大丈夫なのか、センダック」
 開口一番そんな言葉がビュウの口から飛び出して、センダックは目を丸くした。
 この老人は昔からこんな感じではあるのだが、最後に会ってから一年近く経っている。
 赤面癖が尚酷くなったかな、とビュウは感じた。
 
 「そんな……って、ビュウ、わしの事をそんなに心配してくれているの……?」
 「あー、いやそういう」
 「そうなの。わし、最近ずっと風邪気味で……。本当は招待すべきか悩んだんだけど」
 そんな、とビュウの口から思わず声が漏れた。赤面症ではなく、本当にただの体調不良だなんて。

 「どうしてそうやって、いつも自分の事を後回しにしてまで相手を気遣おうとするんだ!」
 突然ビュウの激高が、それほど広くは無いセンダックの家に響き渡った。他に人がいなかったのが幸いだ。
 「ただでさえ老人の一人暮らしで大変だろうに、その上ずっと体調不良が続いているようだと家事もままならないだろう?どうやって生活してるんだ」
 「えへへ、最近わし、物忘れも始まっちゃったらしくて。近所のヘルパーさんにお金を渡して、買い物とか掃除をして貰ってるよ。お陰で誰かと話す事も出来るし、お医者さんにも行ける」
 そこまで言い切るとセンダックはごほごほ、と深く咳こんだ。
 初めは怒っていたビュウも、さすがに長く城での生活を離れて一人の老人として生活を始めたセンダックの事をとやかく言っても仕方ない、と眉間に皺を寄せつつため息をついた。
 「医者にきちんと行けているならいいんだ。城の常勤医みたいにいつでも見て貰える訳じゃないから。いくら退役したからと言って、年長者として心配してるんだ。センダックからしたら迷惑かもしれないけど」
 「そんな事ないよ。ビュウがわしが一人暮らしを始めた後も心配を掛けてくれたなんて、わし、嬉しい……。医者には言われた通りに行ってるよ。」
 センダックはそこで言葉を切ると、小さく頭を振って見せた。
 「でもお医者さんが言うには、この熱は年を取った事による抗体の減少が原因だから、医者に通うだけじゃダメなんだって」
 「栄養と睡眠、か」
 「そうなの。普段通り生活出来たとしても油断しちゃ駄目だってお医者さんは言うの」
 そこでセンダックは左に持っていた杖がこん、と床を叩いた。
「だから、本当はちゃんとビュウを歓迎したいんだけど。わし、二階に上がりたいの。いいかな?」
 「どうして家の当人が、来客の言う事を聞かなきゃいけないんだ。分かってる、手伝うよ」
 ありがとう、と呟くセンダックの左手を、ビュウは右手でそっと握った。
 それはこれまでの激しい戦闘を繰り返してきたとは思えない、折れてしまいそうな程細い指だった。



 「ありがとう、ビュウ。あの階段結構昇るのが億劫でね、わしいつも下で過ごしてるの」
 センダックはベッドにゆっくりと体を滑り込ませた。
 直前に着替えを済ませたのだが、センダックはビュウの手伝いを頑なに断って衝立の向こうから中々出てこようとはしないのだ。
 そしてやっと出てきたと思ったらいつものようにもじもじしている。これだけ見れば元気な頃のままなのに、と思いつつビュウはセンダックの行動を促した。
 
 「センダックはいつも横になる時本を読んでるのか?」
 ビュウはセンダックが中々衝立から出てこない合間に、彼の寝室を軽く観察していた。
 彼の宮廷住まいを彷彿とさせる、広々とした寝室だった。あの時は寝室兼書斎、といった風だったが、この部屋もそれと同様にしたかったのか、特に目を引くのが壁一面に作られた本棚だった。
 彼が勤勉である事も、また無類の本好きである事は王宮の誰でも知っている話だ。話によれば、彼の蔵書は元々大した量ではなかったそうだが、彼の本棚が潤ってゆく度に国で管理している本が減っているのだとか囁かれていた。今となっては確認のしようも無いのだが。
 彼はその蔵書の一部を退役の際この家に運び込んだそうだ。残りは国に寄贈したので、そのような噂も立つのだろう。しかしビュウはセンダックの本好きに託けて欲しい本を取り寄せていた経歴があるので、センダックには感謝こそすれ謂われ無き噂は聞こえないふりを貫き通していた。
 「うん?そうだね、眠くなるまで本を読むのが日課になってるかな」
 そう言ってセンダックはヘッドボードに手を伸ばした。こうなることを想定してしつらえられているのか、小さな棚には本が積み重なっていた。
 「でも最近は寝付きがいいお陰でどこまで読んだか忘れちゃうの。次の日は違う本を読むんだけどまた忘れちゃうの。それの繰り返しでこうなっちゃって」
 センダックは気恥ずかしそうに笑ってみせた。
 「すっぽり読んでいた記憶が抜け落ちるくらい快眠って事だろ、気にすることはないさ」
 そう言ってビュウはセンダックの指先を目で追った。積み上げられた本の背表紙をなぞると、どうやらどの本も物語であるらしかった。これは良い睡眠導入になるな、とビュウは微笑んだ。
 その視線に気付いたのか、センダックは一番上の本をさっと取ると、掛け布団を頭まですっぽりと被ってしまった。何もそこまで、と言おうとしたビュウの言葉を遮るように、センダックはゆっくりと顔を覗かせた。
 「それじゃあ、わし、ちょっとだけ横になるから。来て貰って早々で悪いけど、ビュウは下で自由にしてて。起きたらすぐ下に行くから、ね?」
 「そんなに焦らなくてもいいよ、今日はしっかり時間を作ってきたんだ。ちょっと本を借りさせて貰うけどいいよね」
 センダックが小さく頷くのを見た後で、ビュウは本棚から適当に本を抜き出した。
 「それじゃ、少し部屋を借りるよ」
 そう言葉をかけると、ビュウは後ろ手で部屋のドアを閉めた。



 階段を降りて、ビュウは広々とした居間の中央に置かれたテーブルの椅子を引いた。
 樫の木造りの丈夫そうな机の上に本を置くと、ビュウは改めて辺りをぐるりと見回した。
 天井は高く、換気用なのか木製の両手ほどありそうなシーリングファンが音もなくゆっくり回っている。
 沈黙の中、風を切る音だけが優しく聞こえるこの環境は読書が捗りそうだ、とビュウは率直に思った。
 足下に敷いてある織物はダフィラ産だろうか、ふと懐かしい情景が脳裏を掠めた。そのダフィラよりずっと太陽の光の優しいカーナだからか、大きな窓から差す午後の光が織物の特徴的な模様を照らしていた。
 この光の下でなら、特にランプを付ける必要もなく本が読めるだろう、とビュウはそこで初めて本の表紙を見た。

 『カーナ風土記―戦乱を越えて―』『ウォーレンス詩集』『幸福な王子』
 「……何だろう、この組み合わせ」
 ビュウはくすりと笑った。実用性から趣味の物まで、多種多様な本を読む彼らしいと言えば彼らしい。特に風土記については、グランベロスによる侵略の前後で変化した部分があるらしいとは聞いていたので、ビュウはその本を手に取った。布張りに箔押しされた表紙のその本は、片手には少し重みを感じた。これがカーナの風土なのだとしたら、軽いくらいだろうな、とビュウは表紙を見つめた。
 
 ページを読み進め、丁度自分が子供の頃よく世話になった大通りに連なる多種多様の露店に及ぶ記述の所までやってきた。そこでビュウは、空気を切る音とは別の、土を蹴る小刻みな足音に気付いた。
 ページ数を確認し本を閉じると、こんな閑静な家に何者だろうと確認の意味でゆっくり立ち上がる。そして窓へ足音もなくひっそり近づくと、今度は足音に加えて小さな影が綺麗に整えられた庭木の間を駆け抜けて行く者がいた。
 「子供……?」
 センダックの家は、玄関から門までの距離が少しある。その合間に、花壇や剪定された庭木がバランスよく配置されていて窓からでも十分四季折々の移り変わりが楽しめるようになっているのだろう。
 その間を駆け抜けて行ったのは子供だろうか、小動物が迷い込むほどの広さはないはずだ。
 ビュウは影が消えた辺りを注意深く見つめた。新緑が目に優しい。
 すると突然、呼び鈴の涼やかな音が家の中に鳴り響いた。思わず扉を見やるビュウ。
 ややあって、二度目の音。残念ながら今いるビュウの位置からは、玄関をはっきり見ることは出来ない。思い切り顔を付ければ話は別なのだが、さすがにその様な事をするのは子供らしくてみっともない。  三度目の呼び鈴が鳴った所でビュウは大人しく窓を離れ、呼び鈴を鳴らした主の姿を確認すべくドアの前に立った。

 「どちらさま?」
 「――……!!じーちゃんじゃない!」
 声変わりすらしていない甲高い男の子の声がドアの向こうから聞こえてくる。
 じいちゃんとはセンダックの事だろう、と思いつつひどく驚いた声を上げるその少年に、ビュウは優しく声をかけた。
 「ごめんね、今おじいちゃんは上で休んでるんだ。俺はたまたま遊びに来た彼の古い友人なんだけど」
 「じいちゃんに友達がいるなんてオレ初めて聞いたぜ!ホントなのかよ!」
 随分失礼な物言いだな、と内心ため息をつきながらビュウは口を開いた。
 「そうだよ。そうじゃなきゃ俺が居座り泥棒になってしまうだろ?」
 ビュウは敢えて子供に合わせて茶化してみせた。すると子供は興奮した様子で靴の音をばたばたとさせながらドアを叩き始めた。
 「泥棒だったらオレが捕まえてやる!母ちゃんから教わってるんだ、早くドアを開けろ!」
 この流れはどう考えても、ドアを開けた瞬間子供は自分に飛びかかってくるだろう。どうしたものかとビュウは数秒考えた。
 「分かった」
 ビュウははっきりと言い放つと、ドアノブを握って一気に捻った。
 


 勝負は数秒。
 今ビュウの足下には、ふてくされた顔であぐらを掻いて座る見た目五歳程度の子供が座っている。
 
 ドアノブを握り、ドアを開けたその瞬間。
 少年は獲物に狙いを定めた猫のように、しなやかな動きで真っ直ぐビュウに飛びかかって来た。
 しかし言ってしまえばたかだか子供である。ビュウはその場から小さく一歩引くと、目の前をごろごろと前転してゆく子供をそっと見守っていた。

 「兄ちゃんさ、か弱い子供に対してちょっとは手加減してやろうとかそういうの無いの?」
 「か弱い子供がどこにいるって?少なくとも突然襲ってくる子供には使わない言葉かな」
 ビュウが余裕の笑みを浮かべると、少年はムキになって声を張り上げた。
 「う、うっせえ!何なら母ちゃんに言いつけてやるからな!」
 「お母さん?」
 「そうだよ!母ちゃんがこの家の掃除とかしてんだぜ、じいちゃんより絶対詳しいんだから」
 少年はまるで自分事のように母親のことをひけらかしている。彼にとって自慢の母親なのだろう。
 「そういえば君、まだ俺が泥棒だって思ってたりする?」
 「思ってはいないよ……けど、兄ちゃんが誰かは全然知らない」
 「そういう俺も、君が誰か知らないんだけどね。そこはお互い様かな」
 それもそうだ、と少年とビュウは笑いあった。ひとしきり笑った後で、ビュウは少年に手を差し出した。
 「俺はビュウ。カーナ戦竜隊の隊長だ。……言っておくが、嘘じゃないからな?」
 「戦竜隊?!ホントなのかよ兄ちゃん、すげえ……!!」
 少年は自分の紹介より、目の前に現れた国の英雄の登場に興奮していた。
 暫く言葉を失い、瞳を輝かせながらビュウを見つめる少年を相手に、ビュウは言葉を促した。
 「さ、俺の事はいいから君のことを教えてくれないかな?」
 「分かった、オレはハイス。さっき言った母ちゃんの息子さ!じいちゃんがさ、母ちゃんに世話になってるからオレは自由にこの家を出入りして良いことになってんだ!」
 ハイスと名乗った少年は、ビュウの手を掴んで立ち上がるとふふん、と鼻を鳴らした。
 「ここの家、周りよりずーっと大きいだろ?だから友達に自慢できるんだぜ!」
 
 確かにこの家はカーナの中心からやや離れたのどかな住宅地の、さらに外れにあった。
 センダックが落ち着いた場所を選んだせいもあるとはいえ、いちいち何をするにも馬車を使う距離に住居があっては何かと大変だろう、とビュウは思っていた。
 「そうか。それで君はよくこの家に出入りしているんだね。驚かせてすまなかった」
 「いいんだ、兄ちゃんは何も悪くないし」
 ハイスの態度は先程とは一変していた。その変わりようにビュウの口から思わず声が漏れた。
 それを聞き逃さなかったのか、ハイスはすぐさま不満を顔に出した。
 「何で笑うんだよ、オレは兄ちゃんとじいちゃんが知り合いですげーなって思っただけなのに」
 「そういえばハイス、さっきからじいちゃんと呼んでいるけれど、センダックとはどういう関係なんだい?俺とセンダックなら、古い付き合いのある友人って所かな。君もセンダックが国の人間であることは知っているだろう?」
 「うん、じいちゃんが偉い人ってのは母ちゃんから教えてもらった。全然そうは見えないけどなあ。オレはたまにここに来てじいちゃんと遊んでるんだ」
 「遊んでる?」
 「……遊んでやってんの!じいちゃんが来てくれって言うから」
 外で遊びたい盛りの子供が大人と、それも老人と付き合っているという事は多少は恥ずかしいのだろう。ハイスはむぅ、と頬を膨らませた。
 「そうなのか。センダックもいつも一人じゃ退屈だろうしな。俺からも礼を言わせておくれ、ありがとう」
 「そ、そんな大した事、全然してねえし!オレはじいちゃんと本読んでるだけだし」
 ハイスの頬がほんのり染まる。それでも、彼の表情はどこか悲しそうだった。
 「それでか。ほら、これなんか有名な児童文学だし、センダックに読み聞かせてもらってたのかな?」
 ビュウは持って降りてきた本の中に丁度子供向けの短編集がある事を思い出し、それをハイスに見せた。それでも表情の変わらない彼を見て、ビュウは小首を傾げた。
 「オレ……、オレ」
 そこまで言うと、ハイスの表情が急に曇り始め、視線がビュウから外れる。そうして床をじっと見つめたまま、彼はゆっくり口を開いた。
 「オレ、実は文字がよく分からないんだ。読めないし、書けない」
 そして思い出したかのように、空気を切る音だけが聞こえてきた。
 
 それを破ったのはビュウだった。
 「それさ」
 ビュウの声に、ハイスが釣られるように顔を上げた。
 ぴたり、と視線が合うと、ビュウは優しくにこりと微笑んでみせる。
 「俺もだ、って言ったら?」
 「そんな、ありえないよ!」
 ハイスの目が丸くなる。その変化がおかしかったのか、ビュウの笑い声が部屋に響き渡った。
 「ありえない?本当だよ。丁度俺が君ぐらいの年の時にはね、全くと言っていいほど読めなかったんだ。何も珍しい話ではないよ、センダックもきっと分かってくれてる」
 ビュウは大きく頷いて見せると、近くにあった椅子を引き寄せた。
 「生憎、そのセンダックは今寝てるんだ。起こしてしまうのも可哀想だし、ハイスが暇なら俺がこれを読もうと思うんだけど、どうかな?」
 「うん、ビュウの兄ちゃん、ちゃんと最後まで読んでよね!」
 ハイスは元気よくビュウ膝の上によじ登った。そんな彼を見て安心したビュウは、じゃあ、と前置きをするとゆっくり本の表紙を捲った。



 「なあビュウ兄ちゃん」
 ハイスは暫く閉じた表紙を見つめた後で、ビュウの表情を伺うように体を捻った。
 今まで彼は、ビュウの膝に座って子供向け短編小説を読み聞かされていた。ビュウは何だ、と短く答えると、首を小さく捻った。そこで目が合い、ハイスは屈託のない笑顔を見せる。
 「あのな、えーとね、この二人バハムート様の所へいったの?」
 「うーん、そうかもしれないし、違うかもしれない」
 「なんで?だって『神様は唯一絶対の存在』なんでしょ?」
 ハイスはたどたどしい言葉遣いでバハムートを形容した。教育の行き届いていない家庭にもバハムートの名が轟いていることに、ビュウは改めて彼の凄さと実際の差を思うと思わず笑いが零れでた。
 そんなビュウに不思議そうにさらに首を捻ってみせるハイスに、ビュウは慌てて笑うとその場を誤魔化して見せた。
 「確かにカーナでは、バハムートは誰でも知っている神様だ。でも」
 そこでビュウは言葉を切ると、本の表紙に人差し指を置いてすい、と滑らせ始めた。
 「マハールには水の神様がいるし、ダフィラには商売の神様がいる。神様が必ず一人とは限らないんだよ。ハイスには分かるかな?」
 「わ、分かるよ!神様は沢山いるんでしょ?」
 「そういうこと。大きくなれば、ハイスももっと世界の事に詳しくなれると思うよ」
 ビュウは指先で表紙をとんとん、と叩くと大きく円を描いてみせた。
 「大きくなったらかあ。オレ、早く大人になりたい!」
 喜色満面の顔でそう声をあげると、ハイスはビュウの膝から器用に飛び降りて大きく手を広げてみせた。ビュウはそれに頷き返すと、ふと窓の外の色合いが変わっている事に気づいた。
 「そういえばずっと本を読んでいて気付かなかったけど、時間は大丈夫なのか?」
 そう言われてハイスは初めて後ろを振り向いた。そしてすっかり草木が夕日に染まっている事に気づくと上げた両手を頭の後ろで組んで慌てた口調で足をばたつかせた。
 「やべえ!やべえ、あんまりじいちゃんの所にいると母ちゃんに怒られるんだ!」
 「ハイスも大変なんだな。センダックが起きてこないのは残念だけど、今は真っ直ぐお帰り」
 「そうする!またねビュウの兄ちゃん!」
 ハイスは片手を大きく振ってみせると、迷う事なくビュウに背を向けて走り去っていった。
 


 「ビュウ、おはよう」
 「センダック起きたのか、おはよう」
 階段の軋む音がして、センダックがゆっくり二階から降りてきた。それを目で追いながら、ビュウは声を掛けると水道の水をコップに汲んだ。それから椅子を引いてセンダックを座らせると、水を差しだし自らも反対側の椅子に腰掛けた。
 「随分ゆっくり寝させてもらっちゃったけど、暇じゃなかったの、ビュウ?」
 センダックは水を含むとゆっくり口を開いた。ビュウは小さく首を振ると、『幸福な王子』の本を手にとって表紙をセンダックに見せた。
 「実はさ、男の子が一人来てて。これを一緒に読んでたんだ」
 「ハイス、来てたんだ。起こしてくれてもよかったのに」
 センダックは多少しょげた様子で、その上でハイスの顔を思い浮かべたのかにこりと微笑んで言った。
 「この家に子供って、あの子しか来ないのか?」
 「うーん、本当は色んな子に遊びにきて欲しいんだけどね。その子たちの親が駄目って言うらしくて」
 「怖がられているというより敬遠されてる、の方が近いのか。確かに周囲に比べたら家は立派だけど」
 「手伝いを取ってるのも影響してるのかな、わし自身言われるほどお金はないんだけどね」
 そう言うとセンダックの立派な白髭がくしゃり、とへの字型に変化した。
 「でもあの子は、ハイスはそういうのを全く気にしてない良い子なの。あの子を見てると」
 そこで言葉を切ると、センダックはビュウからやや視線を外して再び口を開いた。
 「昔のビュウに似てる気がして」
 「俺が?ハイスに?あんなやんちゃしてたっけ」
 ビュウの口から思わず笑い声が零れた。それを見てセンダックは目を丸くすると彼を見た。
 「何何、ハイス何かしたの?変な事をしてなきゃいいんだけど」
 「大丈夫、大した事はないさ。気になるなら後で彼に聞いてみるといいよ」
 ひらひらと手を動かすと、ビュウは微笑みをセンダックに返した。

 「にしてもセンダック、一体どこが俺に似てるって言うんだ」
 ビュウは心外だ、と言いたげに眉間に皺を寄せていたが、ややあってああそうか、と呟いた。
 「あの子も動物好きだったりする?」
 「ああ、それもあるね。図鑑を見せるとずーっと質問攻めに遭って大変なんだよ」
 「……後は俺もあの年まで文字が読めないくらい学がなかった、って事とか」
 「ビュウ、そんなつもりは」
 「事実だからさ、何を否定するつもりもないよ」
 慌てるセンダックに、自嘲気味に笑うとビュウは本を開いた。
 「でもハイスは努力してる。一生懸命カナは読み上げていたから、きっとどんどん知識を吸収して賢くなるよ。何よりセンダックが傍にいるんだ。俺がこうなれたように、ハイスもきっと」
 「そうなれるといいんだけど。というよりビュウ、わしそんなにビュウに物を教えた記憶が」
 「年と一緒に忘れてしまっただけさ。俺は覚えてるよ」
 ビュウは本を机に置くと、椅子から立ち上がった。
 「あの頃の俺は小生意気なガキだった。それを考えれば今のハイスと似てるのかもしれないな」
 「あの子、ああ見えても案外気難しかったんだよ。それこそ」
 「俺そっくりってか。小さい頃の話は余りしないでやってくれよ」
 センダックの言葉を遮ると、ビュウは右手で頭を抑えてはは、と笑ってみせた。

 「でもそんなハイスが、孫みたいで可愛いな、なんて思うときもあるんだから」
 「孫?」
 「他人様の息子を勝手に孫呼ばわり、なんてしたら怒られちゃいそうだけど」
 センダックもゆっくり立ち上がると、語尾を誤魔化すように笑った。
 「これからも、出来る限りはあの子の力になってあげたいって思ってるんだ」
 「そんな風に愛情を込めて育ててくれる存在があるなんてハイスは幸せだな」
 ビュウは確認するかのように深く頷いた。
 「これは言い過ぎじゃないよ。センダックには人を見抜く力があると思うんだ。こんな事を言うと自分を買い被っているんじゃないかって思うけど、センダックのお陰で俺みたいなのでもここまで来られたんだと思ってるよ」
 「ビュウ」
 「なんだかここまで言ってしまうと気恥ずかしいな。でも言いたい事は言えたし、俺はそろそろ帰るよ」
 ビュウは後頭部を軽く掻くと、センダックに背中を向けて歩き出した。向かうは勿論玄関ドアである。
 「待ってビュウ、待って」
 「どうしたんだセンダッ……ク」  センダックに呼び止められて、何事かと足を止めたビュウを待っていたものは。

背中に伝わる、もう一つの熱。
 自分の胸元に回された、白くか細い腕。
 振り返ると、センダックがビュウの背中にそっと抱きついていた。
 「まだ、行かないで欲しい」
 「センダック、分かったから少し落ち着いて」
 ビュウは驚いてセンダックの手を取った。身長差があるせいか、彼の着ているローブの手元がずれ落ちて骨張った腕が露わになっている。
 多少力が入っても仕方ないと思っていたものの、ビュウが力を入れる前にセンダックの腕は力なく滑り落ちた。その行く先を確認するかのように振り向くと、センダックは手元をもじもじと捏ねながら口を開いた。
 「突然こんな事してごめんね。でもこうでもしないとすぐにビュウがいなくなっちゃいそうで」
 「大丈夫だよセンダック、また来るから」
 「またっていつ?一週間後?一月後?一年後?」
 センダックは思い切り顔を上げた。興奮しているのか、顔がほんのり上気している。
 「わし、最後をここで過ごそうと思ってこの家を選んだの。今まで散々みんなに迷惑を掛けたからせめて、って。でも」
 「そんな事を思った事もないけど、何があったんだセンダック」
 首を傾げるビュウに対してセンダックは捏ねていた手を胸元まで上げ、ビュウに訴えるように声を上げる。
 「ありがとう……ビュウ。でもわしが決めた事だし、それにあの子が現れてから考えが変わったんだ」
 「あの子ってハイスの事か」
 「そう。あの子の明るさに、わしは独りよがりな考えに浸っていた事に気付かされたんだ」
 「それはいい事だけど、その事と俺に何の関係が」
 ビュウの問いに、センダックは大きく頭を振った。
 「言ったと思うんだ。昔のビュウに似てるって。わし、あの子と一緒にいる事で小さなビュウの世話をしているような気がしてた」
 「センダック、それは」
 「分かってる、分かってるよ。ハイスはビュウの代わりにならない。ハイスと一緒にいればいるほど、わしは気付いちゃったんだ。やっぱりビュウじゃなきゃダメなんだって」
 そこまで言い切ると、センダックは視線を深く落とした。力なく下がった腕が、彼の小ささを強調させる。
 「こんな事言ったら、ビュウは困るだろうしハイスも困るって分かってる。だけど」
 センダックはビュウの顔色を伺うように、そろそろと視線を上げる。それをビュウはにこやかに見守っていた。
 「ハイスと一緒にいるのは楽しいし、これからも彼の力になりたいと思ってる。あの子には沢山の事を吸収して立派になって欲しいと思ってる。だからビュウ。たまにでいいから、あの子の成長する様子を見守って欲しいんだ」
 「センダックがそこまで言うなんて、本当に期待してるんだな」
 ビュウはやれやれといった様子で肩を下ろしてみせると、一つ大きく頷いた。
 「分かったよセンダック。すぐにという訳にもいかないけれど、たまにハイスに会いに来るよ。勿論センダック、君にもね」
 器用にウインクなどするビュウを目の前に、センダックは思わず彼の手を取り声を震わせた。
 「ありがとう、ありがとうビュウ。わし、今度はちゃんとお出迎えできるようにしておくから」
 「そっか。じゃあ次来るときは、お得意のクッキーでも焼いて貰おうかな」
 
 センダックの手をそっと握りかえしたビュウは、想像の中の甘いクッキーの香りを思い出していた。

 カップリングって言えるんだろうか、そんなビュウとセンダックでした。
 CP的に言えばセンダック→ビュウ→……?に近いのかもしれません。それでもセンダックに対しては好意的に見ているのが今回のビュウです。
 寧ろおしりまろやかなんてされてるビュウの事ですから、抱きつかれるのなんて案外日常的なので何事もなく対処できているのかもしれません。
 実はと言うか何と言いますか、「行かないで」のセリフで最初に出てきたのがセンダックでした。
 もうここ自体が彼のためにあると言っても過言ではないのかもしれない(笑)