町を見下ろす高台に、その堅牢な宮殿は建っていた。
キャンベル宮殿。文字通りキャンベルの王都にふさわしい名だとは思うが、人口一を誇る都市において施政を執り行う場所にしてはいささか名前が足りないような気がしてならない。そうは言われても、ここより巨大で荘厳な建物は存在しないのだから誰も文句を言うことはないだろう。
それは彼女−−、ジョイも同意見だった。今までもこれからも、彼女は成長をともにしてきた宮殿を仰ぎながら生きていく。
からんからん、と尖塔の鐘が時を告げる音に耳を傾けながら、ジョイは午後の執務に入るべく杖に蛇の絡んだ紋章の刻まれた扉を開けたのだった。
「ジョイ、最近調子が良さそうじゃない。何かいいことでもあった?」
「そう? やっぱりアネスの目はごまかせないみたいね」
「職業病なのかもね。やだやだ。 ……で、何か私には教えてくれるよね?」
いつの間にか、アネスはジョイの隣に立っていた。それだけ気になって仕方ないのだろう。そもそも二人しかいない執務室の中にあって、噂も秘密も広まりようなどないのだが。
――いや、彼女なら明日の今頃、同僚の間で周知の事実にしている可能性が高い。
予定表に書くより早い情報網の恩恵は、もちろんジョイも受けていた。便利である反面、こうして提供側に回ると複雑な心境だ。
「知ってるわよね、私の親友がもうすぐこっちに帰ってくるんだって。一年に二回、会えればいい方だから楽しみで仕方ないのよ」
「あー、あの派手な赤毛の子? わざわざ他国で学ぼうなんて真面目よねー。で、いつ会えるの?」
「来月よ。昨日手紙をもらったばっかりで。 それにしてもよく覚えてるわよね、アネスの記憶力にはびっくりよ」
「ふっふーん」
嫌み半分でこぼした褒め言葉を、アネスは小さく鼻を膨らませて受け入れた。王宮お抱え研究者とはいえ、身分はプリーストだ。医務室と研究室を日頃往復しているので、第三者の顔はそれなりに見ているはずだ。
なのに彼女は、一度顔を合わせただけのネルボのことをしっかり覚えているようだった。昔からその記憶力には助けられてきた一方で、若干世話焼きな彼女の言動に困ることも少々ある。
話が膨らむとみるがいなや、アネスは手ごろな椅子を引っ張ってきてジョイの隣にどっかと座った。目線を合わせた彼女は、ここぞとばかりに口を動かし始める。
「名前――、までは忘れちゃった。でもあんな美女、一度見かけたらそうそう忘れないと思うけどな。ジョイは近くにいすぎてわからないんだろうけどね」
「うーん、そうかな? でもあの子は昔からモテてたから、アネスの言うことも間違ってはいないのかもね」
曖昧な笑みを返しながら、ジョイは親友の姿を思い出していた。確かに彼女の傍には常に男の影がちらついていた。だがそれを当の本人は鼻にかける様子もなく、それどころか彼女なりの「白馬の王子様」を探しているらしい。それは二人の秘密だとはにかむ顔が可愛かったことまで思い出したところで、ジョイの意識は突然現実に引き戻されたのだった。
「ちょっと、ジョイったら!」
「あ、あれ? ぼーっとしてた?」
「楽しみなのはわかるけど、まだまだやることは山積みなんだから。とりあえず予定が決まったら教えてよ、融通は利かせてあげるから、さっ!」
「ありがとう。あれ、どこ行くの?」
言い終わると同時に、アネスは押し出すように椅子から立ち上がる。不思議そうに見上げるジョイを前に、彼女はにこりと微笑むとぐいと乗り出すように手を伸ばした。
がたがた、かちゃり。
少しだけ不安な音を残して、古い木枠の窓が開く。同時にふわりと香るのは、その向こうに整備された四季とりどりの花と緑の香りだった。
「さ、休憩しましょ。一日こんな場所に缶詰にされてたら、進むものも進まないわよ、ね?」
「もうアネスったら。 ――今日のは何の茶葉にしようかしら?」
もうこの部屋には用はないと言いたげに、アネスの足取りは軽やかに書類の山の中を泳いでいく。たしなめるように口を開いたジョイもまた、立ち上がると同時に書類に重石を乗せることを忘れないのだった。
***
カランコロン、カランコロン
「うーん……」
「あーっ、終わった終わった。お疲れさま、ジョイ!」
鐘の合図とともに腕を伸ばしたジョイは、肩に手を置くアネスの手に驚き振り向いた。唐突だからではない。その意外なほどの力強さに驚いたのだ。
「あっ、ごめん。びっくりした? いやあ、嬉しいだろうなーと思ってね」
「アネスまでそんなに喜んでどうするの? むしろあなたたちに迷惑をかけるのに」
ジョイの肩に乗せた手をばつが悪そうにのけると、あくまでもアネスはどこ吹く風と言った顔で笑った。
「仲間が一人、一日休んだくらいで立ち行かなくなる仕事でもないんだから。何より私たちはキャンベルお抱えのプリーストであり研究者なのよ? それに明日はジョイにとって大切な日なんだから。私たちのことなんて気にしないで楽しんでおいでって!」
「本当に楽しそうに仕事を受けてくれるのね。その分私――」
「お土産話、よろしくね!」
快活な声とともにアネスの手が肩から離れる。かと思えば、その手はジョイの背中をとんとんと叩く。ただでさえスピーカーのアネスがどこまでネルボのことを聞きたがるのかに若干の不安はあったものの、ジョイはあくまでもにこやかな笑顔とともにひとつ頷き鞄を抱えたのだった。
「まだかな……まだよね」
そわそわ、そわそわ。
右に左にと軽くバッグを振りながら、ジョイは約束の場所に立っていた。初夏のカラっと晴れた空はすがすがしい気持ちにさせてくれるし、ときどき吹き出す噴水は焦りそうな心を静めてくれる。
周囲は同じ目的の人ばかりのはずなのに、その中で一段と浮いているような気がしてならなかった。いや、浮き足だっているのは自分の心だろう。
「でも、そろそろのはずなのよね……いつもこんなだったかしら」
つい独り言が多くなる。それだけ期待が強いのだが、本人の姿が見えないが故に愚痴も口をついて出てしまう。
カーン、カラーン
そんな彼女の気を引くように、広場中央に立つ鐘が時間を告げ始める。後十回、などと回数を数えているうちに、鐘は鳴り止んでしまった。
少しの沈黙の後、こぼれたのは小さなため息。
「……はあ、まさかこの場所を忘れたなんてことはないわよね」
「――忘れるわけなんてないでしょ、ジョイ」
自然と落ちた視線が、噴水の現れては消える波紋に重なったその瞬間。降りかかった懐かしい声にジョイはたまらず振り向いた。スカートがふわりと風に舞い、一瞬視界が遮られる。その先に、確かに立つ懐かしい姿に一歩、また一歩と自然と歩み寄る。時を告げる鐘の下、動きやすそうなパンツスーツ姿で悪戯じみた微笑みを浮かべる親友の前に立つ。口を開いて見ても、脳内で渦巻く言葉の洪水の前でジョイが今とれるのは彼女の名を呼ぶことだけだった。
「ネルボ! よかった、私――」
「疑ってごめんなさい、なんて言い出さないわよね?」
「もう、水を差さないで。 ……おかえりなさい!」
言葉に詰まるジョイを前に、ネルボは開口一番ふざけてみせる。だがそれが彼女なりの助け方なのだとわかっているからこそ、ジョイは気兼ねなく笑うことができるのだ。
「ただいま。 じゃあ、行きましょ。ジョイには聞いてほしい話がたくさんあるのよ」
「私だって!」
ざあ、ざあと背後で噴水があがる。けれど今の二人に見えているのは互いの笑顔だけだ。絡めるように取った手をつなぎ直すと、二人は公園を後にしたのだった。
「ここ、ここ! 変わってないわね!」
たたっ、と数歩先に踊るように出て、ネルボははしゃいだ。指をさし振り返るその表情は笑顔に満ちている。変わらない笑顔に思わずジョイの口元が緩んだ。
ここはジョイにとっては気分転換にときたま訪れるお気に入りのカフェ。おしゃれなテラスのある木造りの店で、高台にあるおかげで何より眺めがよかった。
「一年ぶりだもんね。ネルボが喜んでくれてよかったわ」
「そっか、そんなに経つのかあ――」
感嘆の声をあげるネルボ。懐かしむように少しだけ考えるような素振りを見せたが、それも一瞬でジョイの手を取った。
「ほらほら、早く入りましょ! ええと、あなたは確か」
「ううん、今日は違うのにしてみようかなって。これ見て」
手を引かれながら、ジョイは空いた手で店の入り口に置かれた黒板を指さした。黒板には季節のメニューとしてが桃のデザートが描かれている。
「あれ、いつもチーズケーキじゃなかった?」
「こういうのもいいかなーって。ネルボは?」
「そう言われたら一緒にしちゃおうかな。ねえ、席取っておいてよ。行ってくるからさ」
はらりと離れるネルボの細い指先。すがるように一瞬手を伸ばすが、悪意を感じさせないネルボの笑顔にジョイは大人しく手元に戻して指を組んだ。
「いいの? ありがとう。じゃあ−−あの辺りでね」
顔を外のテラスに向けると視線の先でネルボは小さく頷いた。そして軽やかに店内に消えていく。何もなかったかのような空間に残されて、ジョイは安堵の息をついたのだった。
「お待たせ! やっぱりいい席よねー、ここって!」
「ありがとうネルボ。……あれ、それって」
「美味しそうだから買っちゃった。お昼まで時間あるし、いいよね?」
二人分にしては大きなトレイをテーブルに置いて、ネルボはいたずらっ子のような微笑みを浮かべる。ジョイの視線の先にはグラスが二つと、小ぶりなマカロンが三つ、クリームのクッションを挟んで仲良く座っていた。
「もうー……。ほら、座りなさいよ」
「ふふ、これくらいないと途中でお腹の具合ばっかり気になっちゃいそうだしね」
「そんなに気にしなくても、夜は泊まっていくんでしょ?」
「そう! そう思って宿は取ってないの。ねえねえ、夜は一緒にご飯作りましょ?」
勧めに従って大人しく椅子に座ったかと思うと、ネルボは期待に目を輝かせて今日の予定を語った。彼女がキャンベルを離れて数年、気づけば帰郷の最初の宿はジョイの家と決まっていた。彼女の両親への了承は次の日挨拶することで良しとされており、ネルボの両親もそうしてジョイの元気な姿をみられることを喜んでいるようだった。
「えーっと、それじゃあ買い物していかなくちゃ。空っぽなのよね、保冷庫」
「そんなこと言って、今日のために整理してくれたんでしょ? いいのに、気を使わなくても」
「たまにしかない事だもの、あり合わせのものなんて出せないわ」
そう答えると、ジョイは甘い香りの漂うアイスティーにガムシロップをゆっくり注いだ。マドラーでかき混ぜると、渦に乗って砂糖はあっという間に溶けて見えなくなった。
そっと視線をネルボに戻すと、彼女は目を輝かせて早速マカロンにフォークを刺していた。挟まったクリームが僅かに漏れ出てなければ、お菓子というよりおもちゃのような可愛らしさだ。それを一口ぱくりと食べると、さも美味しそうに口を閉めて目を細めた。
「――大当たりよ! ほら、ジョイも食べて!」
「そうしようかな、ねえ、ネルボは向こうで美味しかったおやつってある?」
自然な調子でそう聞きながら、ジョイも笑顔でフォークを手に取ったのだった。
青い縁取りのデザート皿をかちんと鳴らして、ジョイは深く頷いた。ネルボの口は止まることを知らないかのように動き、ジョイの生活の一か月分には当たろうかという会話を彼女は一人でやってのけた。
「順調そうでよかったわ」
「あなたがいないことを除いたらね」
「またそういうことを言うのね」
ネルボにとってもまた、ジョイは本当に気の許せる親友だ。それでもこみ上げる気恥しさとは反対に表情筋は緩む。そのあべこべさはネルボに自然な笑いをもたらしていた。
「ふふっ、嘘なんて言いようがないんだから。確かにあっちの出来事は刺激的だけど、三年もいたらさすがに慣れるものでしょ?」
「そうよね……あとどれだけそっちにいるの?」
「私にもさっぱり。 なーんて言いたいんだけど」
「――え?」
不意を突かれてジョイはぽかんと口を開けてネルボを見返した。彼女は優秀なウィザードだ。だからこそ年に数人出るかというゴドランドへの留学生として勉学を修めている。その期間は数年とも数十年とも言われ、中にはそのままゴドランドで後継の育成に務めるものもいるという。
だがそれよりジョイが心配しているのはネルボの身の安全だった。平和な世の中とはいえ空の事故はあるものだ。単純な船の故障から始まり空賊による略奪、果てはべロスの傭兵の作戦の巻き込まれまで――。実際起こった数を数えるだけでも、空は地上よりずっと危険だった。
「……それは良いこと、それとも悪いこと?」
「どっちだと思う?」
「もう、やきもきさせないでちょうだい」
言葉にしないと気持ちは伝わらない。だからこそ、ジョイは声色を少し低くして抱える不安をネルボに伝えた。するとネルボは小さくかぶりを振ると「大丈夫よ」と口にいた。
「わかった、言うね。私、来年キャンベルに戻ることになりそうなの」
「――よかったじゃない!」
途端にジョイの肩から重りが落ちたように軽くなった。陰鬱な気分は吹き飛び、重いため息は安堵の息となりジョイは笑顔を取り戻した。弾む声は喜びをありのままネルボに伝え、今日はこのまま楽しい晩餐を迎えられそうだと胸をジョイは胸を撫でおろした。
一方のネルボも釣られるように笑っていたが、しばらくすると何を思ったのか不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの?」
「どうしたじゃないわよ、なあに、もしかしてドッキリだったの……?」
「……ネルボ?」
安心したかと思いきやネルボは急にそわそわし始める。言葉の意味が分からず眉を顰めるジョイに向かって、急に彼女は声をあげて笑い始めた。
「あはは、やっぱりニールの調子のいい話にまんまと騙されたんだわ。あーあ、またジョイのそばにいられると思ったのに!」
「ニールって? 騙されたって? それに……」
「あー、ジョイは知らないよね。ニール・ウォーラム。魔法省の官僚なんだけど、彼、キャンベル女王の遠縁なんですって」
「……それも嘘ってことは?」
「ないわ。証拠を見せてもらったもの」
「――………………」
言いようのない不安に、ジョイはじっとネルボの顔を見つめた。ネルボはこんな小さなことで嘘はつかない。だが顔も知らない女王の遠縁などという男の話をまるっと信じることなどできるだろうか?
さすがに意味が通じたのだろうか、ネルボの顔から笑顔が消える。ややあって、参ったな、と言いたげに艶やかな赤毛をいじりながら小さくうつむいた。
「言いたいことは分かるわ、家系図そのものを見せてもらったわけじゃないから……。でもそんな大きな嘘をつくとは思ってなかったわ、帰ったらとっちめてやるんだから!」
「ふふ、加減してあげてね。それにしてもなんて言われたの? こっちで仕事が決まったとか……」
「仕事なんてものじゃないわ!」
強めの語気にジョイは少しだけ身を固くした。だがネルボが見たかったのはその表情だったらしく、柔らかな笑顔のままグラスに口をつけた。気づけば彼女の分のマカロンは皿から姿を消している。ネルボと会うといつもこうだ、とジョイもグラスを手に取った。
一息つくころには、グラスも皿も空になっていた。空に高く昇っていた太陽も長い影を投げかけていて、そろそろ違う店に移るかを考えるにはいい時間だろう。気分の落ち着いたであろうネルボがグラスにわずかに残った氷をストローで回しながらにこりと笑った。
「……ふう。だいぶ話に熱中しちゃったわね」
「いつもびっくりするような面白い話をネルボが持ってくるからよ。どれもこれも男絡みで……!」
ジョイにとってはゴドランドは未知の国だ。だからこそ興味深くネルボの話を聞いていたのだが、自然と口を突いた言葉にジョイは絶句した。
「……信じられないわ、あなたの気を引きたいがために嘘をつくなんて」
「それもキャンベル女王の側近に推薦するなんて言っちゃってね。嘘も嘘、大嘘よ」
「そんなことを?!」
「ジョイ、落ち着いて、ね?」
がたんとテーブルを揺らして、ジョイはわずかに立ち上がった。どうどうと手を差し出すネルボにたしなめられて、ジョイは打ち付けた太ももをさすりながら大人しく座りなおして大きなため息をつく。
「話が話だから、ジョイも聞いてるかなって思ったの。そいつが言うには、君の親友にも話が行ってるはずだから、って」
「……聞いてないわ」
「だから仕方ないわ、って思ったの。また離れるのは寂しいし男の話に乗せられるのは悔しいけどね」
ふう、と息を吐くと右手をひらひらさせてネルボは苦笑する。話はいつもこうして二人のその後の話で締められることをジョイはすっかり忘れていた。
「ネルボならとにかく私が女王様の側近なんて無理な話なのよ。それにしてもあなた、何かと男にケチがつくのね」
「そうなのよねー。私にもいつか現れないかしら、白馬の王子様が」
「ネルボ……」
「……なーんてね。もう、辛気臭い話は終わり終わり! ねえ、買い物に行きましょ!」
ネルボは椅子からすっと立ち上がると手を軽く打って花のように笑う。そんな彼女に対して、ジョイは複雑な笑みを返すことしかできなかった。
自分よりずっとネルボは男性にモテる。それは知性であり性格であり肉体美であり、ジョイとは正反対な部分が理由なのだとわかるかるからこそどう声をかけていいものかわからない。そんなことを悩んでいる間に、ネルボはテラスの階段を降りようとしていた。
「ちょっと待って、あなたその荷物で行くつもり?」
「言われてみればそうよね。よーし! 今日はたくさん飲みましょう!」
「もう、ネルボったら!」
ネルボは初めからその気だったのかどうかは今は些細な話でしかない。ともかく一晩では終わらないであろう予感に、ジョイは満面の笑みを浮かべて椅子から立ち上がったのだった。