Novel / まめまめしい


 うんうんと唸る声が、先ほどから気になって仕方なかった。
 何をそんなに悩むのか、何よりどうしてここに彼がいるのか。飛び回る蚊のような煩わしさに痺れをついに切らしたミストは、ずかずかと床板を踏みならすと彼の隣の椅子に手をかけた。
 ギギッ、ガス、ドスン。
「うわあ! ……あっ、どうも。ええと」
「ミストよ。ちょっと、名前くらい覚えておいてくれない?」
 被せ気味に答えた彼女の声はイライラを隠そうとすらしていない。その上カウンターの上に乗せた肘と乗せられた細い顎が、ますます彼の恐怖心を煽った。
「さっきから何をうんうん唸ってるのよ。気になりすぎてお酒が美味しくないじゃない。私が決めてあげるから、さっさと悩みを話すといいわ」
 感謝なさい、と言いたげな彼女はつんと顔を男から逸らすとカウンターに並ぶ酒を選び始めた。そういうシステムではあれど、とても人の悩みを親身に聞いてやろうという態度には思えない。
「……はあ。そういうことなら」
 諦めにも近いため息ひとつ。ここはこの一杯で乗り切ろうとグラスに手を伸ばして、男はそこで初めて水が尽きていることに気がついた。
「ついてないなあ、ぼくって……」
「ねえ、アンタ。オレンジでいい?」
「え? ああ、オレンジジュースなら」
 嘆いたのも一瞬喜んで、と言いかけた男の笑顔が脆くも崩れていく。その眼前には変なものを見るようなミストの目と、見慣れないリキュールの瓶が握られていた。
「もしかしてアンタ飲めない人? 仕方ないわねえ」
「いいんです、水でも……」
 ぶつぶつ文句を言いながらも、ミストは自然と椅子を降りるとカウンターの裏へと回る。なんとか止めようと恐る恐る伸ばした男の手も届かず、戻ってきた彼女の手にはグラスが二つ載ったトレイが握られていたのだった。
「そういう気分じゃないけど、はい」
「ありがとうございます。 ……あの、ミストさん」
 自分勝手に思えて相手に合わせる優しさに少しはミストを見直した男は、初めて呼びかける名前を噛まないように一瞬間を取って話しかける。
「何?」
「わざわざありがとうございます。後、ぼくの名前は」
 小さく乾杯をしようとグラスを持ち上げたミストが男の視線を射貫く。艶やかで長い小麦色の髪、気の強そうな眉と吸い込まれそうな青い瞳。
恥ずかしさを隠しきれないまま、もだもだと男はミストに名前を告げたのだった。

 「じゃあ始めましょうか、|ムスコ《圏》くん?」
 「そんな意味ありげに言わないでくださいよ。いいんです、名前で呼んだって……」
緊張に唾を飲みも構えたのも余計だったゾラのむすこはばつが悪そうに言葉を返した。ミストはといえば、彼の発言をさらりと流すとグラスの中身をあおってに含み笑いを浮かべただけだ。
 「あえて名前を言わせない、なんて考えたこともないから面白いなって。他のみんなにはどう紹介してるのよ」
 「普通に「ゾラのむすこです、よろしくお願いします」で受け入れてもらってますよ、多分。くんさん付けで通じているならいいかなって……」
 「不自由してるのは私みたいな中途組、ってことね」
不満そうに小さく息を吐くと、ミストは再び肘をついた。思い返せば彼女との初対面はゴドランド奪還後の朝礼で、皆を前に行われた挨拶だけなのだ。
「それで? 肝心のゾラさんは何て言ってるの?」
「えっ。 ……多分ミストさんが思ってる通りだと思います」
 ある意味話の本題に戻ってきたとはいえ、名乗りの件は母であるゾラには苦笑でなんとか受け入れられているのが現状だ。名をつけた親を恨んだことはなくとも、肩に掛かる負担が未だに重いゾラのむすこにとって苦い表情を返すのに精一杯だった。
「情けない、かあ。 でも暖かく見守ってくれてるならいいお母さんじゃない」
「……ありがとうございます。だからその、記念日のこともあるのでどうしたらいいかなって」
 意外なミストの言葉に頭を下げると、ゾラのむすこは手を揉みながら打ち明けた。ミストはというと、一瞬目を見開いて何かを思うようにそうかあ、と呟いた。

「母の日かあ、すっかり忘れてた。もう私には関係ないっていうのもあるけどね」
「ミストさん、もしかして」
「ああ、いいのいいの。私の両親はカーナ侵攻の時に命を落としてる、と思うのよ。私自身がカーナのことは伝聞でしか知らないから」
 ちくりと刺さる心の痛みに祈りを捧げようとしたゾラのむすこに、手のひらでノーを突き出すとミストは穏やかに笑った。彼女の経歴はまったく知らないが、親の生死すら不明なこの状況で平然としていられる心の強さはどこで育まれたのだろうと興味を持った。
「――だから、私も一緒に労らせてちょうだい。いいわよね?」
「え、え? だってぼくの……」
 相談だけで終わるはずの、予想もしないミストの発言にゾラのむすこは目を白黒させた。彼女の言い分だと、母親であるゾラに物理的な干渉をしたいということになるはずだ。
 ただでさえ気を揉ませている母親に精一杯の感謝を伝えようとしている控えめな自分の前に、積極的なミストが出たら霞むに違いない。それでもダメだと言葉にしなければ、伝わるものも伝わらない。ごくりと唾を飲み込み息を吸うゾラのむすこの思いは、あっけなく打ち砕かれてしまったのだった。
「ゾラさんにはお世話になってるし、みんなのお母さんみたいな存在なんだから、順番が早いか遅いかくらいだと思うのよね」
「――母さんは、ぼくの母です」
「あー、うん。分かってるわ。その日を大切に思う気持ちもね」
 穏やかなゾラのむすこの目に冷たく胸を射られて、ミストは繕うような笑顔を浮かべながら理解を示した。大きなため息を吐いてジュースで一息つく彼に、彼女は改めて推理を口にした。
「その感じだと、毎年お祝いしてるんでしょ? だから当日になってもそうやって悩んでる。だから私が一緒にいるだけでちょっとしたサプライズになると思うんだけど?」
「なんですか、その「もう決まったでしょ」って言いたげな顔は。それに女性と一緒っていうのは……その」
 怒ったかと思えば、今度は突然ゾラのむすこは俯いてもじもじし始める。恥じらいというものはまったく感じられなかったが、彼の経歴を知ってしまった悪戯心が、ミストの心を刺激した。

「そうと決まったら、ほら立って!」
「えっ、ええっ」
「お花くらいはあるんでしょ、それで十分よ、ほら!」
 急かされるように立つゾラのむすこの手を取って、ミストは自らの意思で大部屋の外へと踏み出した。その一歩が自分の未来への道を進んでいることすら、彼女は知るよしもないのだった。
まめまめしい
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母の日ってことでこの人です。
まったく接点のない二人なんですが、好きなんですよね凸凹具合が。上手くかみ合いそうだな~と勝手に思ってます。
オレルス君がいい男かどうかは分からないですが、好奇心は彼女の心も動かすはずだと思ってます。自分に自信があるからか計算高い行動にオレルス君は振り回されそうですが……。

2021/05/09



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