Novel / 春はまだ遠く


 柔らかな陽光が大地を照らし、季節は草木が芽吹く春。
 キャンベル・ラグーンのある町に、親子は揃って戻ってきた。  外に出れば着飾った若い女性たちが行き交い、商店街は女の子を連れた親に積極的に呼びかける。
 この様子を見て、母親であるところのゾラはもうすぐ女の子の成長を願う祝祭があることに気づかされた。
 もっとも、彼女の子供は成人している上に一人息子なのだが。
 彼女は楽しそうな親子連れを横目に、小さくため息をつくと買い物籠を持ち直した。

「ただいま」
「おかえりー」
 玄関を開けると、そこには頭巾とマスクをして馴染みの箒で床を掃く息子の姿があった。彼は彼女に一言掛けるとすぐ掃除に戻る。長らく同じ場所で暮らしてきたせいか、久々に会った気がしないのも仕方ない。
 彼女は籠を台所に下ろすと、中からオレンジを取り出し水の溜まった桶に入れた。桶に滾々(こんこん)と流れる冷水が彼女の気持ちを静めた。
「少し休憩したら?あんたのお陰でずいぶん綺麗になったみたいだし」
「そうかな?元々綺麗だから僕は軽く床を掃いてるだけだよ」
 濡れた手を拭く彼女、ゾラの声に息子であるオレルスはマスクを外して笑ってみせた。
 実際綺麗好きな母親のお陰で掃除の基本が学べたのだから、彼女には感謝してもしきれない。
「それならそれでゆっくりすればいいのに。お陰で久々に会った気がしないよ」
「本当にね。やっぱり僕は箒を持っているときが一番落ち着くみたいだ」
「まったく、せっかく戦争も終わって槍も箒からも開放されたって言うのに結局それかい」
「掃除は趣味だからいいんだよ。この箒だってすっかり愛着が沸いて持ってきちゃったんだから」
 そういってオレルスは自慢げに手に持った箒を掲げて見せた。事情を知らない人間からしてみれば、使い込まれた古い草箒にしか見えない。
 ゾラははあ、と肩を下ろして見せると彼に向き合った。
「そう言えば予定より到着がだいぶ早かったけど、わざわざ掃除するために来た訳じゃないだろうね?」
「ああ、それなら……母さん見てないの?」
「何を?」
「庭にいるはずなんだけどなあ、ムニムニ」
「あの子に乗ってきたのかい!」
 ゾラは目を丸くした。驚くのも無理はない。ドラゴンと言えば何よりその大きさが脅威であり、鳴き声は近所迷惑では留まらず、何より体臭は周囲の人間を遠ざけるのに十分過ぎた。
 だというのに外にいたゾラが全く気付かなかったのだ。もしもとは言え自由に動くことがあれば、それこそお詫び行脚で済まされたものではない。
 うーん、と間延びした声を漏らすオレルスを構うことなく、ゾラは急ぎ足で裏庭に続くドアへ向かい開け放った。彼女の脳裏には息子と共に頭を下げて回る光景が否応なく浮かんでいた。

「……あら」
ゾラの口から気の抜けた声が漏れた。ドアを開けた先、まだ草木の手入れがされていない広さだけはある庭に、ムニムニが静かに佇んでいたせいだ。彼は零れんばかりの大きな目玉をゾラに向けた。懐かしい顔を見て擦り寄りたいのだろうが、ほぼ庭いっぱいの体躯のせいか彼はもどかしそうに体を揺すった。
「久しぶりだねえ、ムニムニ。元気にしてたかい?」
「ワン!」
 ゾラの問いかけに対して、ムニムニは辺りを気にしてか小さく鳴いた。
 それでも家のガラスが震えるほどの音量だ。割れやしないかと心配そうに振り向くゾラを、ムニムニはまばたきして見つめていた。
「……ふう。ともかく、狭いだろうけど少し我慢するんだよ」
 そう声をかけると、ゾラは家に入ってオレルスの元へ戻った。その間に片づけはあらかた済んだのか、ダイニングテーブルの上には冷茶をいれたグラスが二つ置いてあった。
「ムニムニ、いたでしょ?」
「いたけど、ねえ……。あんたは客なんだからここまでしなくていいのに。まあ座りなさい」
 促されるまま椅子を引くオレルスを横目に、ゾラはキッチンまで移動すると冷やしてあったオレンジを適当に切り分け皿に盛り付けた。
 それをテーブルに置こうとしたゾラだったが、そんな彼女が振り向くのをまっていたかのようにオレルスは口を開いた。
「不思議に思わなかった?ムニムニが全然臭わなかったの」
「そうねえ。本当なら今ごろご近所さんに頭を下げてるところなのに」
「実はね、アルタイルから帰ってきてからムニムニが僕に優しくなったんだ」
 そこで言葉を切るとオレルスはえへへ、と気恥ずかしそうに頭をかいた。
「お前も成長した、ってことなのかねえ」
「やっぱり?そうだと思う?」
 感慨深げに息を吐いたゾラの言葉に食い入るように、オレルスは身を乗り出して口を開いた。
「ビュウさんも言ってくれたんだ。今のお前にならムニムニを託せるな、って。」
「あら、本当なら凄いじゃない」
「本当だって。だからその言葉がとても嬉しくて、僕もビュウさんみたいにはなれないけどできる限りムニムニを可愛がろうって思ったんだ」
「昔のお前が聞いたらビックリしそうだね」
「そうだね――」
 ははは、と笑い飛ばしてみせるゾラの一方で、オレルスは過去の自分を思い出したのか遠くを見、それを振り払うかのように大きく頭を振った。
「ふるさとに戻ってくる以上はムニムニの事にも気を使わなきゃ、って思って頑張って洗ったんだ。ムニムニにも説明してさ」
「あの子は人の言葉が分かるのかい?」
「分からないけど、理解は出来るってビュウさんが言ってた」
「ビュウ、ビュウってすっかり師匠みたいな物言いね」
「ドラゴンのことを一番分かってるのはビュウさんだしね。あの人みたいに立派な戦竜隊の隊長にはなれなかったけど、僕なりのことをやっていくつもりだよ」
 オレルスは大きく頷いた。達者な物言いだったが、実際一人暮らしを始めて町の自警団にムニムニと共に入隊したというのだから彼の言葉に嘘はないのだろう。
「そうね、応援してるよ」
 戦争を経ていつの間に大きく成長した息子を目の前に、ゾラはそう口に出すのが精一杯だった。
 走馬灯のようにオレルスとの別れから今に至るまでが脳裏で再生され思わず涙ぐみそうだったが、外を行き交う女の子のかん高い笑い声が彼女を現実に押し戻した。
「母さん?」
「……ごめんね、ぼーっとしてたわ」
 首を傾げるオレルスをそう言いくるめて、ゾラは彼女自身が気にしていたことを聞くことにした。

「そういや、そのビュウのことなんだけどね」
「ん?ビュウが最近どうしてるかは僕知らないよ。解放軍が解散した日から会ってないから」
「なんでも神竜バハムートとオレルスを見回る役割についたみたいよ」
「すごい、さすがビュウさんだ。でも母さん、どうやってそれを知ったのさ」
「それがね、ヨヨ女王からお手紙が届いたのよ。何かあったら頼ってね、って。さすがに驚いたよ」
 親子ともども目を丸くしてビュウを取り巻く環境に感嘆した。
 オレルスはでも、と前置きして半笑いで呟く。
「頼ってね、って言われても僕たちは散々ビュウさんに頼ってきたし、むしろビュウさんこそ頼れる人を見つけるべきなんじゃないかなあ」
「あら、そんなことを言えるようになったのね」
「ビュウさんが幸せならそれでいいと思うし余計なお世話だ、って言われそうだけど」
「そうねえ。それで?」
「それで?」
 話をあわせているのか同意なのか、ゾラはオレルスの話にうんうんと頷いていた。
 オレルスは懐かしい他人の話をし身を案じることで、話に花を持たせようとしただけなのかもしれない。
 しかしそこに母親が話題を自分に突然振ってきたことで、オレルスの頭の中にはたくさんの疑問符が生まれていた。
 まじまじと顔を見るゾラ。その表情は妙に真剣さが漂っていて、オレルスは再び聞き返すことにほんの少し躊躇した。
「……僕はどうなの、ってこと?」
「その感じだとまだ縁談は聞けそうにないねえ」
 分かってたわよ、と言わんばかりにゾラははっはっは、と声を立てて笑った。
「あんたのことだから分かるよ、でも必要なら話のひとつやふたつくらい持ってくるからね?」
「そこまで母さんの世話にならなくてもお嫁さんくらい、僕だって」
 ゾラが言わんとしていることを理解しながらも、今まで嫁を取ること自体が頭になかったオレルスはそれでも見栄を張らずにはいられなかった。
「それならいいんだけどねえ。……今日が何の日か知ってるかい?」
「どうしたの突然。ううん、分からないや」
 少し考えてから頭を横に振ったオレルスに、ゾラは窓の外を見るよう指差した。
 窓の外では、変わらず小さな女の子を連れた母親たちの姿が目立った。
「今日はね、女の子の成長を喜ぶ日なんだよ」
「あっ……」
「だからちょっと聞いてみたかったのさ。私たちの間にはお前しか生まれなかったからね」
「……ごめん」
「しんみりしないでおくれよ、お前を育ててきたことに後悔はないんだからさ」
「……うん」
 ゾラの笑顔に釣られるように、オレルスも笑顔で頷き返した。どんなに気分がへこんでいるときも、彼女の笑顔に助けられてきたことをふと思い出してオレルスは元気を取り戻した。
「でもねえ。ムニムニと仲良くするのはいいけど、ずっと相手が見つからないとお前もビュウのことをとやかく言えなくなるんだからね?」
「まさか。ムニムニはいいパートナーだけど、嫁にするほどかって言われると」
 ムニムニの全てを見抜くような丸い目を思い出しつつ、オレルスは苦笑して首を振った。
「ワン!ワン!」
「ムニムニ!聞こえてたの?!」
 声が届いていたのかすかさず反論するムニムニに、思わず椅子から立ち上がり庭へ消えていくオレルス。
「あらあら」
 そんな一人と一匹の感情のつながりに、ゾラは微笑ましい気持ちで成り行きを見守ろうとひとり頷くのだった。

春はまだ遠く
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ひな祭りネタのつもりで書いたけど女子が出てこないとはいかに。
アルタイル帰還後なのに当たり前のようにムニムニがいる辺りが私らしいね……
2017/07/06



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