Novel / 若い船乗りと船幽霊


 オレルス。大気に包まれ島々が空に浮かぶ幻想的な世界。
 その中にあって住人たちは海をゆくように船で島々を渡り、あるものは商売をしあるものは見識を広げている。
 船は決められた港にに着岸し、またそこから次の島々へと旅立っていく。

 その中にあって、そこを出入りする住民たちの間で囁かれる不思議な船の噂があった。

 「持ち主不明の帆船だ? そんなもの使える部分だけ取って片付けちまえばいいじゃないか」
 「そうは言われてもねお兄さん、その船ってのがいわゆる『曰くつき』ってやつでさあ」
 まるでこの話を周囲に聞かれたくないとばかりに、酒場の店主は声を潜める。
 時刻は夜8時、夕飯と酒ををあおるために扉を潜った船乗りたちで店は盛況だった。とてもじゃないが、たかがひとつの持ち主不明の船の話でこうして神経質になる必要はないように思えた。だが店主の顔は真剣そのものだ。まるで聞かれてはいけない何かを警戒しているかのように周囲を見回すと、再び声を潜ませた。立派な体躯に似合わない、窮屈そうな体勢だがここまでしなければならない理由があるのだろう。
 「なんだそれは。見れば店主、何人もの荒くれを腕ひとつで投げ飛ばせそうな腕じゃないか。そんな男が噂ひとつを怖がるのか」
 男は港をよく知るこの店主の態度をえらく気に入った。
 それはただの好奇心だった。だが彼の男としての冒険心に火がついたのだから仕方ない。
 少年のように目を光らせる彼の顔を見て、店主はやめておけと言いたげに小さく首を横に振ってみせた。
 「ただの噂じゃないさ。だから話したがらないし、話そうとも思わない」
 「でも俺は確かにこの耳で話を聞いた。だからわざわざ店長に教えを乞うてるんだろ?」
 高揚感のせいか酒が回ってきたせいか、男は普段から不機嫌そうにみえる顔を崩すと声を立てて笑った。
 だがそれが店長の機嫌を損ねたのか、彼は乗り出していたカウンターの向こうに引っ込むと眉根を寄せた。そして呪文のように低く唸ったのだ。
 「この話をそれは聞いている。話しているものに取りついて、その船に連れていくって話さ。お前がこの話を子供だましの話だと笑ったなら、そいつはお前を気にいって喜んで迎えてくれるだろうさ」
 「そりゃどうも。俺はオレルスの空を手にする男だ、船乗りを驚かせる幽霊の一匹や二匹くらい鎮めてやるさ。大船に乗ったつもりで――」
 男はいつか親友から聞かされた言葉を店に響かせた。だが言い切る前に、騒がしいはずの店は波が引いたように静まり返っていた。
 その中でも反応は二つ。明らかに外から来たであろう船乗りたちの訝しげな視線と囁き声。後ひとつは地元の船乗りたちのものだろう、口でとやかく言うよりも如実に、彼らの視線が背中に突き刺さっていた。
 「と、言うわけだ。これでこの港から物騒な話が消えるぞ、さあ飲め飲め!」
 「おう、そうかい。それじゃ改めて乾杯!」
 男が騒いだ理由は分からないが、晩酌を中断されたことは事実だ。音頭を取られたことで話を知らない男たちは日常の喧騒の中に戻っていった。
 だが男に視線を向けた船乗りたちの顔色は明らかに良くなかった。青ざめたものもいれば冷や汗をかくもの、中には両手を合わせて神に祈りを捧げだすものまでいた。
 初めは鋭かった視線が徐々に哀れみを帯びたものに変わっていることに気づき、さすがの男も気味が悪くなった。彼には信じる神など存在しない。だからこそ幽霊騒ぎの元凶を突き止めてやろうと手早く会計を済ませると酒場を後にしようとした。何より噂をすれば憑いてくることが事実だとすれば、今の自分には既にそれと共にいるはずなのだ。

 「ちょっとちょっと、お兄さん」
 「なんだ、俺に用か。それともこっちに」
 「やめてくれよ。船憑きと話したらこっちにも憑くなんて聞いたことねえよ」
 店の出口で男を呼び止めたまだ若い船乗りは、男の隣にいるはずのないものを恐れるように視線を動かすとふるふると頭を振った。
 「船憑き、というのか」
 「ほんとに何も知らないんだな、ご愁傷様だ」
 そう言うと船乗りは、何を思ったのか突然両手を顔の前で合わせると目を閉じた。これではまるで自分が葬式に送られる側だ。たかが幽霊騒ぎで死者扱いは気分が悪い。男は船乗りの両手を無理やり掴んで引き剥がすと彼の顔を見据えた。
 「よく見ろ、俺はちゃんとここにいる。噂だろうが本物だろうが、この手で解決してくるからこの顔を忘れるなよ」
 「……はあ。今までで一番威勢がいいな。何なら名前も聞いておこうか?」
 「ホーネットだ。それで? 今までで一番、ってことは過去にも幽霊に挑んだやつらがいたんだな」
 呆れた顔の船乗りとは対照的に胸を張るホーネット。そんな彼に水を差すように、船乗りは冷たくぼそりと呟いた。
 「いたぜ。皆同じように出て行って、生きて戻ってきたやつは誰もいないんだ」


 「どうせ事実に呆れて顔をみせずに帰ったか、確認する前にびびって顔をみせられなくなったかのどちらかだろうな」
 若い船員の暗く沈んだ顔を思い出すと同時に鼻で笑い飛ばすと、ホーネットは答えるもののいない憶測を口にだして一人で納得していた。
 彼は店をでると、夜風に吹かれながら港町の大通りをひとり歩いていた。周囲にはたくさんの人がいたが、誰もホーネットを気に留めようとはしない。つまり今のところ、彼に幽霊が取りついたようには見えないということだ。実際自身に変化が起こったとか、そういうことは一切感じられなかった。
 「どうして存在を確証できないものを恐れなきゃいけないんだろうな……おっと、ここか」
 本当にいるというのなら、まずは持ち主不明の帆船とやらを調査すべきなのだろう。だがホーネット自身が話半分でしか船幽霊の話を信じていないのと、幽霊が存在するのなら、こちらから出向かなくても向こうから来てくれるだろうという自信が彼の足を自然と今晩泊まる宿へと運んでいた。

 チェックインを済ませ、鍵を受け取り部屋に入る。
 期待はしていなかったがなかなか広くて綺麗な部屋だ。これで一緒にチェスを打つ相手がいれば最高なのだが。ついでにこの話を笑い飛ばしてくれればなおのこといい。
 それなら今からでも足を伸ばして女と遊びにでも行ってしまおうか。
 そう思ったが一人で行ったところで楽しめるようには思えず、仲間も部下もいない独り身にため息を漏らしつつシャワーを浴びると糊のきいたベッドに潜りこんだのだった。

***

 「ようこそ、怖いもの知らずの船乗りさん」
 「……ここは」
 若い女の声に誘われるように目を覚ましたホーネットの目に映ったのは、明らかに人の住む風景ではなかった。
 いや、泊まっていたホテルも打ち捨てられしばらく経ったらこんな風になるのかもしれない。それでも到底人の生きる場所にあってはまずお目にかからないであろう廃墟、そこに二人は対峙していたのだった。
 「驚いてる? そりゃそうよね、どう見ても人が住んでいるように見えないもの」
 「お前、人の心が」
 「読めるものですか。この部屋を見て、そう思わなかった男なんていたためしがないからね」
 釘付けになった視線の先で、女は自虐的に薄く笑った。しかし彼女は小さく首を横に振ると、薄い胸を張り右手を大きく広げてみせる。まるでこの船が豪華客船であるかのように。
 「でも安心して、ここは私の空の家であり私が船長なんだから」
 「つまりここが、噂の幽霊船ってことか」
 「そういうことになるのかしら? ああそうだ、副船長を紹介するわ。フィン」
 「――――?!」
 女が右手の指を鳴らすと同時に、ホーネットの体に味わったことのない違和感が襲い掛かった。自分のものでない何かが、今まさに自分の体から出て行こうとしている。それを押さえねばならない恐怖が、彼の両手を必死に胸を押さえつけていた。
 「う、ぐっ……」
 「あんまり抵抗しないで。そうされると本当に持っていっちゃうから」
 「な…………?!」
 この女は何を言っているのだ。その思惑を考える余裕もなく、恐怖に見開かれたホーネットの目の前に確かに何かがいるのが見えた。
 「おかえりなさい。恋しかったわ」
 恋する乙女のように頬を赤く染めて、女は両手をホーネットの顔を包むように伸ばす。だがそれは彼に届くことはなかった。両手は確かに、いないはずのなにかを迎えいれていたのだ。

 「なんだってんだ、これは」
 「……あらいけない。この人はフィン。私の愛する人で、この船の副船長にしてあなたをここまで連れてきてくれたのも彼なの」
 女の流れるような紹介を聞きながら、ホーネットは目の前の薄ぼんやりしたものを凝視した。だが敏い彼の目をもってしても、捉えられたのは人の形をした青白い発光体だけだった。顔のあるべき部分にあるはずのものはなく、それがいっそう彼に嫌悪感を抱かせた。
 「彼、って……生きてすらないだと……?」
 「そうよ。フィンは昔命を落としたの。だから今はその姿で私の傍にいるのよ。皆が忌み嫌ったこの力で……!」
 荒い呼吸をなんとか整えたホーネットの前に、第二の怪異が姿を見せた。怒りに表情が歪む女に呼ばれたかのように、部屋の左右にあるドアから人の形をした生き物が次々と入ってくる。目の前で起こっていることについていけない彼を、それらはあっという間に取り囲んでしまったのだ。
 見た目はどれも人型だった。だがそれらは全て肉が腐り落ちていたり、変色していたり、骨だけになってしまったものまでいた。だが不思議と死臭は漂ってこない。それはこの人だったものが変異してしまったのか、それとも女の持つ力によるものなのか。
 「こいつらは?」
 「この船のクルーよ。さすがは空の男たちね、しっかり仕事をしてくれるわ」
 「……こいつらが望んでお前の下で働いてるとは到底思えないけどな」
 女の持つ力は生死すら操る恐ろしい力のようだった。それでもホーネットは胸の中で渦巻く思いを吐きださなければ、自らも怒りに息が詰まって死んでしまいそうだと思えた。
 できるなら今すぐここで、この女に手をかけるべきだろう。しかし彼女の部下に勝ち、無事にこの船を出られる確率はとても低いことは自身が一番よく分かっていた。
 「怒ってるのね、分かるわ。でも残念ね、この子たちはみんな望んで仕事をしてるのよ。ただ少し姿が変わって、人間より寿命が延びて、昼と夜が逆転するだけ」
 「生きて……いるのか……?」
 「人間の目線から言えば死んでいる、んでしょうね。でもこの子たちにだって肉体の寿命はあるの。決して死なないわけじゃない。だからあなたみたいな勇気のある人に持ちかけるの、新しい人生を歩んでみない? って。たいていの人は喜んで受け入れてくれるわ」
 「受け入れなかった奴はどうなる」
 「ちゃんと昼の世界に帰してあげるわ。でもあなたなら、ここで起こったことを上手く説明できるかしら? できないでしょう。それに自分の目で確認しようとすらしない人間が信じるわけなんてないじゃない」
 沈黙が包む部屋の中で、女だけが高らかに笑っていた。確かに姿の変わった船乗りたちはそれぞれに意識があるのか、女につられて笑うようなことはない。
 だがその事実が、ホーネットに寂しいという感情を抱かせていた。忌むべき力を持った彼女がどのような生き方をしてきたにしろ、人間との係わりを極力避けるためにとった行動が、こうしてちゃちな幽霊話として港町を賑わせているという事実に。

 そしてその手は次に、ホーネットに差し伸べられていた。
 「そういうわけなの。どうかしら? あなたも一人の船乗りとして、新しい世界を見たくはない?」
 「興味はある。だが俺は自分の目でオレルスの空を見て回りたいんだ。もちろん俺の船でな、親友とそう約束した以上これだけは譲れないんだ」
 「確かにひとつの船に船長は二人もいらないわね。残念。あなたならいいクルーになれると思ったのに」
 同じ船乗りとして理解しているのだろう、彼女は心から残念そうに小さなため息を吐いた。それ以上特に部下を使って追い詰めようとしないところを見ると、考え自体に筋は取っているらしい。それならば、とホーネットは口を開いた。
 「別に俺が船長の座を取って変わろうってわけじゃない。だが聞いてはくれないか、君が船旅をしなくても生きていける方法は必ずあるはずなんだ」
 「……なあにそれ、私を口説いてるの? 結構上手じゃない」
 「いや、そういうわけじゃ」
 「今がこうなっているのも私が考えに考えたことくらいあなたにも分かるでしょう? あなたがそう言い出すのなら、もちろん責任は取ってもらうからね」
 「ぐっ」
 思わぬ言葉が女性の口から飛び出して、ホーネットの脳内には過去の女性関係が一気に蘇ってきた。どうして女性はある程度関係が進むと、責任などという重すぎる言葉を決まって浴びせてくるのだろうか。
 そんな思いに囚われているとは思わず、青ざめもがくホーネットの表情に女性はくすくすと声を立てて笑った。元々不健康な青白い彼女の表情に赤みが差し、女性らしい明るさが彼女を彩った。
 「それじゃあ、しばらくの間だけどよろしくね。確かに辛気臭い場所だろうけど、慣れればなんてことないわ。食事だって温かいものを出すし。女の手料理なんて久々かしら」
 「な、なんだって……?」
 頭を抱えて半目で女の表情を伺ったホーネットだったが、事態はもはや後に引き返せないのだと思うと再び頭が重く疼いてくる。少しでも早く横になりたいと思う彼を前に、女性は片足を軸にくるりと一週半回って背中を向けた。
 「それじゃ、ついてきなさい、新人さん。各自持ち場につけ!」
 手馴れた号令に返ってくる返事こそないが、ゆっくりとクルーたちは扉を順序よく出ていく。ごそごそとした足跡が消えた後で、数歩進んだ彼女はゆっくりと振り向いた。
 「そういえば名前を聞いてなかったわね。私はクレア」
 「ホーネットだ……」
 「あらいけない、船酔いかしら。船長を目指す男がそんなじゃダメよ、早くいらっしゃい」
 明るい笑い声を部屋に残しつつ、彼女は背後にあったらしい扉を開けて出て行った。一人残されたホーネットは、自分もクルーの仲間入りでも果たしたかと思える足取りでのろのろ歩き出した。
 「はは、あいつが見たら笑うだろうな」
 口の端を歪ませ笑いつつ、ホーネットは部屋に差し込む月明かりに惹かれるように窓の外に顔を向けた。オレルスの夜空は今日も美しく、輝く星たちが自分の行く道を照らしてくれる。そうだといいのだが、と思わずにはいられない。
 「この話が、無事俺の武勇伝に加わればいいんだがな……」
 疲れた顔でそうため息と共に弱弱しい決意を吐きだすと、変わらず重い足を一歩、踏み出したのだった。

若い船乗りと船幽霊
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即興二次小説にあげた「若い男と船幽霊」の改題完成版。
元々は船自体が幽霊でしたパターンにしようと思ってたんだけど??
というわけで夏を逃した幽霊話、かと思いきや正体はひとりの女性でした、という話でした。
ホーネットは女にモテるけど女難の相も持ち合わせてると思うんです個人的に。こんな感じで、というのを書きたかったんですが余計過ぎるのでばっさりカットしました。
彼の受難はまだまだ続く(話としては続かないけど)
170909



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