Novel / べとべとの秘密


「――道具屋。アレを」
「はいはい、これですね」
 わざとらしいくらいに低い声を出す男を前に、道具屋はただ苦笑するしかないのだった。

 深夜のファーレンハイト。耳に聞こえるのは遠く唸るようなエンジンの音だけだ。センダックの定めた規律に一応従って、夜十時以降はみだりに部屋から出てはならないことになっている。
 だがそれをいとも簡単に破る男がひとり。見回りに見つかり次第連れ戻されるはずだが、今夜に限って問題はないだろう。なぜなら彼自身が今夜の当番だからだ。
 この日のために、仲間と交渉を繰り返し手に入れた時間だ。明日のことを考えるだけでにやけが止まらない。
 だがそれを目の前で見ている道具屋の店主の目に映るそれは、明らかな不審者のそれだった。
 彼が特にこれを好んでいるという話を聞いたことはない。ただ、ちょうど一年前にも同じような注文が入ったな、とぼんやり思い出していたのだった。

「りんごの花の蜜だけで作られた今年初出荷のはちみつ。あの、ビュウさん」
「なんだ?」
 道具屋はランプを片手に、商品名が書かれたリストを読み上げる。名前を呼ばれて、ビュウはぴくりと眉を吊り上げたのだった。
「危ないクスリじゃないんですから、こんな夜中の受け取りを指定しなくても……」
「確かに夜中に起きなければならなくなったことは謝る。でも」
 そこで言葉を切って、ビュウは受け取った瓶を舐めるように眺める。僅かな灯りの中で妖しい光を放ちとろけるような動きを見せるそれは、思わず中身を掬ってみたくなる衝動に駆られる。だがこれを楽しむのは自分ではない。大きく唾を飲み込むと、わざとらしく咳をしてみせた。
「……これは俺にとって、それと同じくらいの危険を孕んでいるんだ。理解してくれとは言わないから、分かったフリだけしておいてくれ」
「はあ」
 カーナ戦竜隊の隊長にして王女であるヨヨの幼馴染。そんな彼にそこまで言われてしまうと、嫌でも首を縦に振らなければならない。
 感謝の言葉を残して去っていく背中を見つめながら、捕まった先でどんな言い訳をしたものかと道具屋は思わずにはいられないのだった。

***

 爽やかに吹き抜ける風。突き抜けるような青い空。平凡な素晴らしいという言葉では余りある、早朝の夏空をホーネットはブリッジで堪能していた。
「ふんふふん――お、ビュウか」
「ずいぶんご機嫌だな、ホーネット」
 心も浮き立ち、鼻歌のひとつでも歌いたくなる。その中でも彼の感覚は、ビュウの存在をしっかり捉えていた。そして振り向かずとも、ビュウも浮かれているのだなと察したのだった。
「お前もか。見てみろ、今日は特にとびきりだぞ」
「そこまで言うなんて、相当気に入ったみたいだな」
 かつかつと靴音を鳴らして、ビュウが隣にやってくる。艦内では自分のいるここが、一番よく空が見られるとホーネットは思っていた。日ごと時間ごとに違う顔を見せる生きたキャンバスを前に、彼はこの艦に乗ることができて良かったと思うのだった。
 だが成り行き上乗ることになったビュウの心はここにないようだった。ちらりとビュウの手元に目を落とすと、大切そうにバケットを両手で抱えていた。その上に大判のスカーフが掛けられており、底で結ばれているらしい。そう簡単に中身を見せるつもりはなさそうだった。
「綺麗だな」
「……お前、違うものを見てるだろ」
「――分かるか?」
 感情は確かに篭っている。が、ビュウの視線の先は遠い空ではなく甲板に向けられていた。確かにこの時期の草木の生命力には驚かされるものがある。しかしビュウにその趣味はない。ホーネットの指摘に顔を上げると、ビュウはへらへらと笑ってみせたのだった。
「どうせ降りるんだろ。あっちは鍵が掛かってるしな」
「さすがだな。それじゃ、俺は俺の楽しみを堪能してくるよ」
「はいはい。寝ぼけたドラゴンに噛まれないようにな」
 本気とも冗談とも取れる気遣いに軽く手を振って返すと、ビュウは慣れた調子でブリッジから乗り出し姿を消したのだった。


 涼やかな風の中で眠るのはとても気持ちがいい。さわさわと耳にくすぐったい草の揺れる音を聞きつつまどろんでいた彼らは、その中に混じった明らかな異音に揃って目を開け首をもたげた。
「ビュウ!」
「ビュウだ!」
「ビュウ~!」
 そして姿を確認すると同時に騒ぎ出す。だがブリッジに現れたビュウは、ドラゴンたちを見るやいなや唇に人差し指を立てたのだ。
「しー、だって。しー」
「しー?」
「静かにって意味だよ、確か」
 首を捻るサンダーホークの問いをサラマンダーは受け止める。サラマンダーにも自信はなかったが、再び静けさを取り戻した甲板をこちらに向かって歩いてくるビュウの顔には確かな笑顔があった。

「よしよし、いい子だ。おはよう、みんな」
 ドラゴンたちが集まるとかなりの迫力だ。長らくドラゴンたちに乗って戦ってきた反乱軍のメンバーも、自分からはあまりドラゴンに触れ合おうとはしない。人間にすっかり慣れたドラゴンたちが団子のように集まることを、ビュウが何度も証明しているせいかもしれない。
 だがそれが、ビュウにとってはとびきり嬉しいことだった。我先にと首を伸ばすドラゴンたちの鼻面を撫でてハグをする。
「おはよう、サラ」
「ビュウ~~」
 ハグしている間も、別々の場所から鼻面を擦り付けられる。力加減されているとはいえ、踏ん張っていないとすぐもみくちゃになりそうだ。
「ぼくもはやくー」
「ぼくが先だよ!」
「よしよし、押し合わない。おはようアイス。こらホーク、モルテンを押しやらない」
「あっ」
 アイスドラゴンをハグしながら、ビュウはぐいぐいと顔を押し付けてくるサンダーホークの足の付け根を軽く叩いた。どんな屈強な生き物でも触られたくはないらしく、思わず下がったその隙間からほっそりした顔が覗いたのだった。

「よし。みんな元気だな。そんなお前たちに、俺から感謝の気持ちだ」
「なになに?」
 そう宣言して、ビュウは足元に下ろしていたバケットに掛けられていたスカーフの結び目をほどく。そして抱えるように持ち上げられたそれは、あまりも大きな透明のガラス瓶だった。
「なんだと思う? まあ、後は食べてもらえば分かるかな」
 答えを待たずに、一度瓶を地面に下ろすとビュウはしっかり蓋をされたコルクを外しにかかった。大きさのせいで人力で外すには難しく、持ってきていたナイフを使いながらこじ開ける。現れた隙間からは、ハチミツ独特の甘くとろけるような香りがビュウの空腹を刺激した。それでも彼は欲望に負けることなく、躊躇なく瓶に手を突っ込むと美しい琥珀色の液体を取り出したのだった。
「ほら、お食べ」
「あーん」
 ばくり。むにゅむにゅ。ぺろぺろ。
「ははは、くすぐったいよモルテン」
 肘の下まで腕をくわえ込んだモルテンが、指の間まで丁寧に舐めとっているらしかった。ドラゴンの体温は人より高い。だからこそ暖かくぬるりとした感覚が、ビュウにはくすぐったくて仕方ないのだった。
「たくさんあるから離して、ほら」
「うーん……」
 名残惜しそうに口をあけるモルテンだったが、ビュウが笑顔と共に再び手を瓶に入れるのを見て目を輝かせた。だがそれは、他のドラゴンたちも同様だった。堰を切ったかのようにビュウにハチミツをねだり始める。
「ボクも、ボクも!」
「ぼくにもちょうだい~!」
「あまいの大好き!」
「こらこら、揃って甘えん坊だなあ」
 まさにもみくちゃにされながら、ビュウの顔はとろけそうなほどの笑顔を見せていた。ドラゴンたちも、ハチミツだけを望むなら瓶を独り占めしてしまえばいいしビュウの存在すら不要なのだ。それでもビュウの手から貰いたがるという事実が、彼にとっての最大の幸福なのだった。
「よしよし、仲良く順番にな」
 たまらず両手を交互に瓶に突っ込みながら、ビュウはドラゴンたちの真ん中で幸せを噛みしめていたのだった。


「……すごいな、ありゃあ」
 思わず感情が口から零れる。零したのはもちろん、その一部始終を見ていたホーネットだ。
 彼はドラゴンを、戦えて乗ることもできる生き物だという認識しか持っていなかった。ビュウが溺愛しているところを何度も見せられている以上、ドラゴンにも感情があるのは分かってはいる。だがあまりの体格と力量の差を前に、人と同じような愛情表現をする彼に対しては理解の域まで到達したくないのが本音ではあった。
「あれじゃあ、ハチミツのせいなんだかよだれのせいなんだか分かりゃしねえな。すっかり背中がべとべとじゃねえか」
 哀れ洗濯係。まず浮かんだ被害者を哀れみながら、ホーネットは幸せが溢れる甲板を見下ろしていたのだった。

べとべとの秘密
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8月3日はハチミツの日!というわけでビュウとあまあまハニーとドラゴンたちでした。
時間的にはオーバーしてるけどねじ込む……!
べとべとっぷりと幸せは比例するのです。たぶん。
20180803付



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