少年は、生まれて初めて天使を見た。
天使、と形容するには言葉が足りないのかもしれないが、当時の彼に聞いたなら彼はきっとこう答えたであろう。
彼はいつも通りの時間に置き、顔を濯ぎ、食事とは言いがたい食堂から分けてもらった残飯をかき込むと、相棒と共に街へ繰り出した。
目的はそう、いつもと同じ。困っている人を助け、盗みをしている子供がいたら捕まえて、今日の分の食料を得るのだ。
彼らは住処の橋の袂から出ると、街の中心に向かって歩き出した。出来る限り人の多いところへ。街の住人にしてみれば迷惑でしかないが、
少年達にとっては、彼らのトラブル自体が自分の源になるというのだから必死にならざるを得ないところではあった。
石畳の上を歩いて行く身なりの整った紳士淑女や学生達、馬車の間を潜り抜け少年達は街の中心地にたどり着いた。
さて、今日も仕事を始めるとすっか! とつんつんと伸びた髪をした少年は一つ伸びをしながら言った。
その傍らに立つ人のよさそうな丸顔の少年は、仕事じゃないよ、お手伝いだよと言葉を漏らしながら同じく大きく伸びをする。
じゃあ後でな! と声を掛け合うと、どちらともなく思い思いの方向に駆け出した。彼らの「仕事」は困ったときのみ共同作業をするのだ。
ツンツン頭の少年は、馴染みの店を中心に回ろうと考えた。この辺りは彼の得意先であり、上手く話を通せば乾いたパンや乾物くらいはくれるかもしれない。
それすらも淡い期待ではあったが常に前向きな彼の事、なければ次を当たればいいさと身近な店の裏口にある扉を叩いた。
少年が回っている商店の辺りは、カーナ王家から正式な許可を得て経営している店や、中流家庭の多く集まる比較的裕福な住民が済む一角であった。
数件の商店を回り、バスケットに収穫を収めた少年は満足げに街の中心に向かっていた。
今日の収穫はなかなかだったなと表情におくびにもださずに笑みをこぼす少年は、バスケットの重みを感じながら街の中心に据えられた大人の3倍ほどはあるかと思われる噴水を晴れ晴れとした気分で見上げていた。
その時、彼の鼻腔を花の香りを感じとった。
普段美的センスというものから遠く離れた彼にとって、花の香りなぞより焼きたてのパンの匂いを敏感に感じ取る方が容易であったのだが、この時ばかりは違った。
無論それも何の香りであるのかすら彼には分からなかったが、その香りに誘われるように彼はその方向に歩き出した。
その香りの元は、探すまでもなく彼の近くを歩く婦人から漂っているのが分かった。
右手に下げた大き目のバスケットから、色とりどりの花が顔を覗かせている。
それを見てから、彼の視界にその婦人の左を歩く自分と歳の近いであろう少女の姿を捕らえた。
サイドでツインテールにした短めの紺の髪、何より彼の目を惹いたのは裾まで大きく膨らみ淡いピンク色をしたドレスのような服であった。
これはどこの国の服だろうと彼は知識の乏しい頭を回転させた。だが答えが出てくる訳がなく、彼に分かったのは彼女が育ちのいい家庭の出だということだけだった。
しかしここで彼は悪魔にも似た考えを思いついた。つまりは育ちがいい=金持ち、ただその単純な構図の元に成り立つただ一つの答え。
彼はすかさず駆け出した。婦人達の歩く速度は大分ゆっくりで―恐らく少女に合わせているのかもしれないが、そのどんくささを呪えよと彼は内心笑みすら零していた。
彼は自慢の脚力で夫人らを追い越し、待ち構え、婦人らの視界に自分の姿が映っていないことを確認すると、――勢いよく二人の前に飛び出した。
飛び出した、といっても彼女らの視界に自分の姿が映ればそれでよかった。要は目の前でいかにも自然にこけたように見せかけて、相手の憐憫を得れば勝ちなのである
そのまま通り過ぎられる事も多々ある。しかし彼の思った通りの結果を得ることも確かにあるのだ。孤児根性ここに極まれりと言った状態ではあったが、
金が一枚あれば、それだけで二人並んで暖かいスープにありつく事ができるのだ。
彼は彼女達の足が止まった事を確認して、鼻の頭をすりむいてはいないだろうかなどと思いながら彼女らから声が掛かるのを待った。
――もし、大丈夫ですか?
大人の落ち着いた声が上から聞こえる。この声が婦人のものなのだろう。ここで少年は確信した、今日はあいつにスープを奢ってやろうと。
しかしそれもまずは起き上がってからでなければ何も出来ない。彼は返答しようと両手を地につけ顔をあげ、婦人の顔を見上げ、
時が、止まった。
頭につけた大きな桃色のリボン、首元から膝上までを覆う優しい桃色のゆったりしたドレス。首もとの白い丸襟から、胸元から、スカートの裾にいたるまで、レースやリボンに彩られた可愛らしいものであった。
スカートの下は白いタイツ、そしてストラップのついたヒールの低い白の靴。彼女の右手は母親の手をしっかり掴んでいるものの、足元がおぼつかないのか時々ふらふらと体が揺れた。
それより何より、少年の目を惹いたのは彼女の顔立ちだった。
太陽の光を全て吸い取ってしまいそうな、深い漆黒の髪。
ぱっちりと見開かれた、聡明さを讃えた鳶色の瞳。
穢れを知らぬ新雪のような、柔らかそうな白い肌。
ふっくらとした小さな桃色の唇は、何かを伝えたがっているかのように僅かに開いてはいたが。
『………。』
互いに、一言も言葉が出なかった。否、出せなかったのだ。
これも少年が、少女の瞳を射止められたかのように見つめていたからなのだけれど。
少女も彼のお世辞にも穏やかとは言えない視線にすっかり硬直していた。
「もし、大丈夫ですか?」
二人の間の沈黙を破ったのは、彼女の母であろう婦人の一声だった。
その声に二人の張り詰めていた糸は切られた。少女は母親の手を離すと未だに地に手をつけたままの彼に歩み寄り、彼に向かってそっと手を伸ばした。
「大丈夫ですか?」
「…おう」
声変わりには程遠く包み込まれるような優しい声に、少年は思わずドキリとした。しかし表情に出さないように差し出された手のひらを恐る恐る握り返すと、少年はその場から立ち上がった。
そして自分の汚れた手が彼女を汚してしまうのではないかとすら思えてきて、少年は立ち上がると同時に握っていた手を離すと背中に隠した。
少女は不思議そうに―人から見れば悲しそうに少年の顔を見た。少年はばつが悪そうに俯いていたが、ほんのり頬が赤らんでいるのが見て取れた。
「あら、そんなに二人とも赤くなっちゃって。可愛らしいわね。」
そんな二人のやり取りをのほほんと見ながら、婦人はレースのグローブをはめた左手を口元に当てるとくすくすと笑みをこぼした。
少年はバネのように婦人を見上げ、少女は何か言いたげに婦人を見上げながら口をぱくぱくとさせてはいるのだがいかんせん頬を林檎のように紅潮させるばかりで言葉にならないようだった。
「…そんなこと、…っないです!」
搾り出すように一生懸命反論する少女の頭を、婦人は優しく撫でると少年に向き直った。
「これから、私たちこの先の写真館で記念写真を撮ってもらおうと思っていたのだけれど」
そこまで言うと、婦人は右手に持った花かごの中に手を入れて何かを取り出した。
「怪我をしていたら大変ですものね、お医者さんに見てもらってくださいな」
「は、はい」
婦人の穏やかだけれども気品のある姿に、思わず少年は背筋を正すとたどたどしい様子で品物を受け取った。
「あ、ありがとう、ございます!」
少年といつも一緒にいる少年が聞いたら腰を抜かしそうな挨拶が、ひとりでに口をついて出た。
婦人は柔和に微笑むと、少女の手を取って膝を軽く折り会釈をしてみせた。
「それではまた、どこかで会いましょうね」
婦人は少年にそう言葉をかけると、少女の握った手を軽く引いた。
少女は弾かれるように婦人を見上げた後、少年を見やると花の咲くような笑顔でこう言った。
「さようなら、またどこかで!」
そうして少女は婦人に手を引かれながら、少年に小さく手を振りながら街の雑踏の中に消えていった。
一方の少年といえば言葉も返せず、去っていく少女に一生懸命手を振り返す事で一生懸命だった。
婦人に手渡された、一枚の金貨とチューリップとスイートピーの小さな花束を大切に握り締めて。
「…だからさ!ホントに天使はいるんだって!」
「ラッシュがそんな事を言い出すなんて、熱でも出たんじゃないかなあ?」
ねぐらである橋の下、夕暮れと共に戻ってきた二人は奇跡のようなその時間を語り合っていた。
「熱なんてねぇよ!だから言ってるだろこれだって天使にもらったんだぜ!」
「ほんとに綺麗な花だけど、これもいつものドロボーのついでに持ってきたんじゃないの?」
ラッシュと呼ばれた少年は、もう一人の丸顔の少年―ビッケバッケに花束を見せながら少女がいかに綺麗だったかを伝えようとしていた。
だが、稚拙なラッシュの語彙ではとても言い表せないと二人とも理解している訳で。
お互い、見計らったかのように笑い出した。
「本当にその天使がいるなら、きっとまた会えるよね?おいらも会ってみたいなあ」
「おう!きっと会えるぜ!そんな気がするんだ!」
ひとしきり笑った後、ラッシュとビッケバッケはそれぞれの天使に会える日を夢想していた。
春の柔らかな夕焼けが、ふたりの姿を優しく包んでいた。
――その天使に再び出会う日が、まさか誰にも予測しえない状況で起こったとは露ほども知らずに。
まさか裏とはいえ公開する日がくるとは思ってもいなかった。
という訳で妄想の産物第一弾、事の発端は絵チャで妄想を垂れ流していたこと。
なので特に考えずに垂れ流していたお陰でおかしな部分があるかもしれませんが
申し訳ございません(ジャンピング土下座)
話としては表にも書いたとおり、ラシュトゥル幼少期、合流前にこんな話があったらいいなという妄想 でした。
トゥルースはラッシュとビッケバッケとは違い、浮浪児時代が短かった事が本編中でも明かされているため、じゃあその二人と合流する時はどんな感じだった?→もし合流前に二人が出会っていたら
……などという、トンデモな話から生まれたと言っても過言ではありません。
そこまではよかったのにどうして腐ったのか
という訳で、以下こんな妄想が続きますがよろしければお付き合いください。補足
ピンクのチューリップの花言葉は「真実の愛」
スイートピーの花言葉は「門出」「優しい思い出」
2012/03/19