Novel / また次の空へ


 どうしてこうなったんだろう。
 窓の外に広がるのはすがすがしいまでの青空。しかしオレルスの心にはどんよりとした雲が覆いかぶさっていた。

 「オレルスどうしたのよ、ため息なんてついて。手が止まってるわよ」
 「ご、ごめん」
 後ろから声をかけられて、オレルスは慌てて持っていた毛ばたきで窓枠を撫でた。はたきに付ききらなかった埃が少しの間宙を舞う。
 開いた窓からそれが風に乗って流されていくのを目で追ってから、彼は声をかけてきた女性に向き直った。
 「……慣れないのは分かるけど、そのいちいち謝るのどうにかならないの?」
 「ごめ、んうっ」
 「ほらまた」
 マスク越しに口をふさぐオレルスに対して、指摘した女性は呆れたように言葉を返した。
 しかし彼に対してさほど嫌悪を抱いているわけでもないらしい。マスクを外した彼女の表情には、優しさを残した笑顔があった。
 「でも驚いたよ、ミストさんは掃除なんてしない人だと思ってたから」
 「爪が傷ついたら嫌でしょ? でも掃除を全部あんたに任せるのは可哀想だし、それに爪のお手入れを最後にしたのはだいぶ前だから……」
 「手伝ってくれるのは嬉しいよ。ありがとう」
 「感謝されるほどじゃないわ、私だってここに住むんだから。あっ、二階の小さめの個室は化粧室にさせてね」
 「うん、分かったよ」
 独断で決められているようでいて、それでも多少は彼のことを考えてくれてはいるらしい。オレルスは特に不満を持たずに頷くことができた。
 言い訳に爪を持ち出したせいで気になるのか、ミストは手袋を取ると爪をいじりながら自分に言い聞かせるように呟いた。
 「でも本当に分からないわよね。どうして私とあんたが一緒に暮らすことになったのか」
 「言っちゃうんだ……。僕もそう思うけど、母さんが言い出したことだから」
 「本当にどういうつもりなのかしら」
 爪から目を離したミストとオレルスの視線が合う。思うことは同じなのだ、と互いの顔に苦笑いを浮かばせていた。

 *
 *
 *

 「あんたたち、一緒に住んでみたらどう?」
 「ええ?!」
 青天の霹靂とはまさにこのことだろう。目を丸くしてゾラの顔を見るオレルスとミストを相手に、彼女は意味ありげな笑顔を浮かべた。

 オレルスに平和が訪れ、キャンベルに戻ってきたゾラの家には、家を出たときにはなかった華やかさがあった。静養のためにフレデリカが、バカンスのつもりでミストが同じ屋根の下で暮らすことを申し出て、ゾラがそれを了承したのだ。
 オレルスは一人暮らしをしていた期間が長かったおかげでキャンベル帰還後も部屋を借りて一人暮らしに戻り、実家にはたまに顔を出す程度だった。
 特に事件もなく平和な毎日を過ごす彼らにとって、それは新たな刺激になりそうだった。
 「楽しそうだと思わない?」
 「え、うーん、まあ」
 「じゃあ決まりね」
 特にミストには思うところがあったらしく、戸惑うオレルスをそんな流れで丸め込むと、彼を連れて新居探しに向かった。
 結局は物件選びから部屋割りまで、ほとんどをミスト一人に決められているような状態だったが。

 「でもちょうど良かったの」
 「え?」
 「ゾラさんには結構お世話になったし、私もそろそろ家を出るべきかなーとは思ってたのよ」
 「それならフレデリカさんと一緒でも良かったんじゃ」
 オレルスの言葉を遮るように、ミストは首を横に振って小さく息を吐いた。
 「あの子はねー、まだ人の助けが必要なのよ。結構怖いわよ、隣でぶるぶる震えられるのは」
 「へ、へえ……」
 俯き、再び長めに息を吐いたミストに視線を送りながらオレルスは一応の納得を見せるしかなかった。気の知れた女三人、楽しく暮らしているのかと思っていたが、見えないところで彼女も苦労していたのかもしれない。
 「それにあんたと一緒に行動するのも面白そうだなって思ってね。まさか諦めてなかったなんて知らなかったもの」
 「戦竜隊のこと?」
 オレルスの問いかけに、ミストは大きく頷くとにこりと笑ってみせた。対して彼は少し不服そうに眉に皺を寄せた。
 「失礼だなあ。諦めるも何も僕はずっと戦竜隊の一員ですよ」
 「反乱軍での活動は雇われみたいなものだったじゃない。私、戦場であんたを見るまでクルーの一人かと思ってたわ」
 「そ、そんなあ」
 大仰に肩を落とすオレルスをよそに、ミストは気分が良くなったのかにこにこと笑っていた。そうやって男を振り回して喜ぶのが彼女の性分であり、ある意味では彼女らしさを彼の前で見せる余裕が出来たともいえるだろう。
 「でもそのおかげで家の掃除もすぐ終わりそうじゃない? 見直したわ」
 「え、ああ、いや、別にそれが本業ってわけでも」
 「後は、私の身の世話まで出来たら完璧ね。どう?」
 「……やりませんからね」
 「なーんだ、残念」
 控えめな性格のオレルスからして、ミストに意見するのは多少勇気が必要だった。しかし彼女は会話を楽しんでいるのか、さらりと流すと手袋を付け直した。
 「それじゃ、掃除を済ませてお茶にしましょ。ねえ、掃除のついでにお茶の作法とか知らないの?」
 「僕を何だと思ってるんですか」
 「一緒に暮らすんだからついでだと思って」
 「ダメです」
 「ちぇっ」
 心に余裕が出来たのか、オレルスは軽口を叩いてミストに反撃した。それに対して彼女は相変わらず楽しそうな様子で軽く舌打ちをすると、そこで彼に構うことを切り上げてくるりと背を向けた。
 それに合わせてオレルスもマスクをかけ直すと、半端に手をつけていた窓に向き直った。
 そこで改めてオレルスは気づいた。反乱軍に所属していた間、ミストとはまともな会話をほぼしていなかったことに。そして先ほどのやり取りに、長らく一緒に過ごしてきたかのような心地よさを感じていたことに。
 窓枠から埃をはたき落としながら、オレルスは自然と鼻歌を歌っていた。


 「カップ、これでいいかな?」
 「洗っておいたから平気。選べるほどないもの」
 「そうだったね。それよりミストさんが自分からキッチンに立つほうに驚きなんですが」
 先ほど洗われたばかりであろう二組のコーヒーカップを手に、オレルスはキッチンを出る。きれいに掃除されたダイニングの中心に据えられた、使い込まれた風合いのテーブルにカップを置くと彼はキッチンに顔を向けた。
 「あのねえ、私だってゾラさんにお世話になってる間、色々学んでたのよ。掃除もそうだし洗濯や料理だってしてたんだから」
 「あれ、料理はあっちでも当番だったじゃないですか」
 そう口にして、オレルスは首をかしげた。あっちというのはファーレンハイトのことだ。大所帯でかつ人員が足りないとのことで、炊事だけは当番制だった。もちろん比較的遅く仲間になったミストも例外はないはずなのだが……。
 「その時は、相手に言って味見と洗い物くらいしかしてないのよねー、実は」
 「さらっと何言ってるんですか」
 「私なりの反省よ。あっ、ミルクと砂糖いる?」
 「はい、お願いします」
 陶器のぶつかる小気味よい音を聞きながら、オレルスは椅子を引き腰を下ろすと改めて辺りを見回した。とてもこれから新生活が始まるとは思えない殺風景な部屋。それに彩りをくわえるように紅茶の香りを漂わせて、ミストがキッチンから姿を現した。

 「適当に買ったものだから合うかは分からないけど、はい」
 「ありがとうございます。というよりいつの間に」
 「もてなし方も学んだからね。それでも思い出しながらだけど」
 目の前で優しい香りを立てながら、カップに紅茶が注がれる。茶葉の種類はオレルス自身もよく知らなかったが、今はミストがしたことの方が重要だろう。彼女が椅子に座ったのを見届けてから、オレルスは思っていたことを口にした。
 「お客さんがきても安心ですね」
 「その前にどうして一緒に住んでるのか聞かれそうよねー」
 「……確かに」
 言われてオレルスは改めて、男女でひとつ屋根の下に住むことの重大さを認識した。自然とこぼれたため息が紅茶の湯気を揺らしたが、その様子を見たミストは小首をかしげて口を開いた。
 「なんでそんな真剣に悩むのよ。あんたは確かにゾラさんに言われたからかもしれないけど、私にはあんたを手伝うってちゃんとした理由があるんだから何もおかしくないわよね?」

 二人の間に沈黙の幕が下りる。
 笑顔を浮かべるミストの顔をオレルスはぎこちなく見上げて、まるで転げ落ちるかのように言葉がこぼれた。
 「――はい?」
 「何て顔してるのよ、素直に喜んだらどうなの? だから手伝うって言ったの。キャンベル戦竜隊の再結成と、発展までいけたらいいなーって」
 「本当に?」
 敬語も忘れて、食らい付くようにオレルスはミストに質問した。
 今の今まで、彼女が一緒に住む理由は彼女が言うとおりただの気分転換であり、次の目標までの繋ぎであり、自分の存在は同居人以上でも以下でもないはずだった。
 しかしそれは全て彼の思い込みだというのだ。言葉を失う理由には十分すぎるだろう。
 「でも今はあんたとドラゴン一匹なんでしょ?その上今は自警団の雇われなんて、情けなくて見てられないわよ」
 「そ、それは船を降りるときに頂いたお金じゃ人を雇うのに足りないのと、ムニムニの食費が……」
 「ドラゴンのこと、良く知らないけどそんなに食べるの?」
 「……はい。ビュウさんに聞いたとおりにはしているつもりです。そもそも個人で戦竜を持つのはやめたほうがいいと言われました」
 そう答えてオレルスは窓の外を見た。ここから見える馬小屋を、ムニムニの住処として借りたのだ。彼の姿は町の住人から隠すためもあり見えない。だが時折聞こえる犬にしては大きすぎる鳴き声に、住民はきっと首をかしげていることだろう。
 「そう言われても戦竜隊を再結成しようとした理由ってなんなの?」
 「ミストさんは知らないと思いますが、キャンベルには戦竜隊のような国を守る組織がないんです。だから僕に出来ることがあればとムニムニを仲間にしました。でもその時は帝国には全く相手にされませんでした」
 「一応苦労してるんだ、あんたも」
 「……まあ」
 同情の視線を向けられて、オレルスは答えると小さく頭を下げた。まさか現実は帝国兵に構われないのをいいことに、毎日ぐうたらしていただけとはとても言えそうにはなかった。
 「だから自警団もある故郷で、戦竜隊としてもう一度名乗りをあげたいと思ったんです」
 「それにしても、よくムニムニは付いてきたわね。お金も人脈もないのは一目見て分かりそうなのに」
 吐き出される事実にぐっと言葉を詰まらせたが、ここで黙ってはいけないとオレルスは引きつった笑いを浮かべた。
 「船を降りるときに聞いたんです。キャンベルでまた戦竜隊を立ち上げようと思ってるから、また一緒に来てくれないか、って。そうしたら僕にすり寄ってきたんです。それをビュウさんに話したら驚いてました」
 「……どっちもお人よしなのね」
 「僕は自分が出来ることを理解して行動しているだけですよ。それを言うならミストさんだって」
 「そうなのかも。でもおかげで次の目標が見つかって私は嬉しいわよ? ドラゴンの乗り方だって完璧だしね」
 「それは良いことだと思うんですが、ミストさん、ドラゴンくさいのは苦手って言ってませんでした?」
 「あ、ちゃんと覚えてるんだ。大丈夫よ、あの子は臭わないから。あんたがきれい好きなおかげかしら」
 実際にムニムニはオレルスが手塩にかけてきれいにしているので、そう言われるのは喜ばしいことだった。
 しかし彼にはそれより気になることがあった。小さいことかもしれないが、殊更名前を出していくと決めた彼にとってはやり過ごすことに限界が来ていた。
 「あの」
 「どうしたのよ改まって」
 「……あんたって呼ぶの、やめてもらえませんか」

 ミストはオレルスの目を見て無言で瞬くと、少し彼から視線を外して思わせぶりに口を小さく開くとまた視線を戻した。
 「ごめんなさい、あなた」
 「あなッ」
 思ってもいない言葉が飛び出して、オレルスはむせ返った。何度も咳をしながら平静を保とうと深呼吸する。
 その様子を初めはにこやかな笑顔で見守っていたミストは、ついに堪えられず小さく笑いだした。
 「ひ、人で遊ぶなって母さんから教わらなかったんですか」
 「遊んでないわ。でもそう呼ぶ日がいつか来るかもしれないわよ?」
 「そう、なのかなあ……」
 言われてオレルスはぼんやりと未来を想像しようとしたが、ミストのしとやかな姿が思い浮かばず思考にもやが掛かるだけに終わった。
 「それじゃ、これを飲んだら持ってきた荷物を開けましょうか、息子くん」
 「はい。って名前で呼んでくださいミストさん!」
 「ふふふ」
 楽しそうに笑うとミストは紅茶に口をつけた。話を流されたことに若干不服そうな顔をしながら、オレルスはカップにミルクを注いだ。

 この家に笑い声が響くようになるには、まだ少し時間が掛かりそうだ。
 しかし机を隔てた二人の笑顔が、横に並ぶのも時間の問題になりそうだった。

また次の空へ
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 話が盛り上がったので自己解釈盛って書いてみました。アリだと思うんですよねこの二人。
 自信のあるミストと自信のないオレルス。でもそれなりに寄るところは寄る。
 でも基本ミストがリードしていくんだろうなーとは思います。姉さん女房なのはきっとゾラと同じなんだろうなーと。
 何より「春はまだ遠く」のお見合い話でミストの名前を出そうとしていたところを展開上カットしてしまっていまさら後悔しています。でもこれで書けたからいいよね……?
 ちなみに「春は~」の話とは別次元のつもりです。(見落としていたせいでフレデリカとミストが同居しているのを忘れていたため)
 2016/09/25



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