Novel / 思い出たちに手を振って



「おっ、いい天気だねえ」
 朝の光に目を細めて、ゾラは大きく胸を張った。
「でもこれで、安心して送り出せるってもんだよ」
「昨日は凄い雨風だったもんな。どうなるかと思ったぜ」
「ビュウがいれば天気を気にしなくてよかったんだけどね。さあ、これを済ませたら朝食だよ、いつもより腕をふるうから期待してなさい」
 ゾラがそういい終わるが早いか、よっしゃ、と小さくガッツポーズをしてラッシュは桶から洗濯物を拾い上げた。
 ゾラの料理は美味しいし、何杯でもおかわりしたくなる。それを何度咎められたか分からないし、実際に怒られたこともあった。だがそんな時間も、しばらく味わえなくなるのだ。
 小腹が元気よく鳴る現実の隣で、ラッシュの胸中は複雑に絡んだ感情でいっぱいになりつつあった。


 辺境のラグーン、孤島テード。
 あの戦争を生き延びたかつてのカーナ騎士団の残党と、そんな彼らに共感した人々が帝国にも知られていないような小さなラグーンで共同生活をしていた。
 軍というにはあまりにも小さな集団だったが、それでも彼らの帝国に対する憎しみの炎は燃え続けている。それを種火に、彼らは準備を進めてきた。
 といっても今、彼らの手元には広大な世界を移動するための船も、カーナ自慢の戦竜もビュウの愛竜であるサラマンダーのみだ。
 毎日地道に田畑を耕し鶏を育て、時折やってくる商人との交流が唯一彼らと外をつなぐ手段だった。


 だがそんな暮らしも、今日で終わる。
 少なくともラッシュにとっては、なのだが。


「よーし、干し終えたぜ!」
「お疲れさま。呼びにいくからゆっくりしてなさい」
「はーい」
 子供のように素直な返事をして、ラッシュは素早く踵を返して家へ戻ろうとした。昨日はわくわくしてロクに寝られなかったぶん、少しでも横になって体を休めないと長時間の騎乗はつらいと分かっているからだ。
 だがそんな彼の背中にかけられた一言が、彼の予定を大きく狂わせることになった。
「そうだ、そろそろ歩きまわれるころだろうし、ディアナの様子を見てきてくれるかい」
「えーっ、オレが? だって」
「いいから!」
 叱るような声に肩を打たれて、ラッシュは一瞬肩をびくりとさせると変わりに小さな舌打ちをひとつ残して再び歩きだす。
「後は頑張るんだよ」
 不機嫌そうに去っていく背中にそっとかけたゾラの言葉は、届く前に暖かな風に混じって流れていくのだった。


***


 ごんごん。
「オレだ、開けるぞ」
「えっ、ちょっと待って」
 乱暴にドアを叩くと同時にノブを開けようとしたラッシュの動きは、戸惑いの声とごそごそという物音と少しの衣擦れの音と共に止められた。大方着替えでもしているのだろう。と彼はぼんやり想像を巡らせた。こんなことならその昔に幾度となく経験していたからだ。
 そういえばテードで暮らし始めてからやたら寝つきがよくなった気がする。そんなことを回顧していた彼の耳に、控えめなディアナの声が届いた。
「……もう、入ってきても平気よ」
「平気かどうかはオレが決めるっての。開けるぞ」
 彼らしい言葉を吐いて、ラッシュは手にかけていたノブを回す。その先から差し込む朝の光に、ラッシュの薄暗い廊下に慣れた目は自然と細められたのだった。


「……おはよう」
「おう。やっぱりな」
「やっぱりって?」
 開口一番に投げられた質問不在の答えに、ディアナは小首を傾げた。その向こうでラッシュは小さく頷いている。
「着替えてたんだろ。いいだろ別にパジャマでも」
「だーめ、やっと自分ひとりでうろつけるようになるんだから。今日は特別力を入れていかなきゃね!」
「ゾラに言われたんだな」
「うん……あっ?!」
 笑顔で頷いて、ディアナはラッシュの何気なく放った言葉の重大さを思い出した。少し前に外からゾラの声が聞こえたように思えたが、どうやら気のせいではなかったわけだ。
 物音に反応するウサギのように窓の向こうを確認しようと振り向くディアナ。そんな彼女の格好を、ラッシュは改めて見下ろした。
 いかにも今ベッドから出てきたかのように乱れたベッドの縁に座る彼女の格好は、カーナの町で仕立ててもらったらしい、オレンジがかったブラウンのセパレート型ワンピースだった。胸元はすっきりしており、彼女の要望なのか腕は切り離され肩が露出している。そして腰から下も大胆に裁断されていてすらりとした足が覗いていた。
 これほどまでに見せるためといってもおかしくない衣装を、ディアナは着る日を楽しみにしていたのだろう。
「……何か付いてる?」
「いや、別に」
 不思議そうに首を傾げつつ腰に巻いた鮮やかなグリーンのリボンをいじくるディアナに、ラッシュは静かに首を振ってみせる。
 以前の彼女をラッシュはよく知らない。だが仲間から聞いた話や今の彼女の服装を見るに、さぞ活動的な子だったのだろうと想像するのはとても簡単なことだった。
 それを否定するような今のディアナの痩せ方と肌の白さを、むざむざと見せられたラッシュの眉間には自然と皺がよっていた。


「――ほら、いくぞ」
 使いから逃げ出すわけにも、この間を取り持つ術も持たないラッシュは素直に右手をディアナに差し出した。きっとその手も頼りないのだろうが、一度外にさえ出てしまえばどうにかなるだろうと考えたのだ。
「えっと、待ってね」
「ああ?」
 しかしその手が握り返されることはなかった。不機嫌を露にしたラッシュの返事に、ディアナは困ったように笑いかける。
「確認みたいでごめんね。その、――つけてないよね?」
「ったりめーだろ、ほら」
 言いよどむディアナに、ラッシュは乱暴な物言いをしながらもその場でくるりと一周して見せた。彼の服は外の仕事にも耐えられるような綿のシャツに長ズボンだ。なんならこのままベッドにだって潜りこめるだろう。
 ほっ、と安堵の息がディアナから零れる。少し間をおいて、笑顔と共にディアナはラッシュの手を握った。ひとつ頷いてから歩き出すラッシュの後ろで、彼女はあくまでも明るくこう口にした。
「またラッシュを見て倒れなんてしたら、もう恥ずかしくて一緒にいられないかも」



 ひとしきり深呼吸したディアナは、太陽の眩しさに思わず目じりを熱くした。
「外って、こんなに気持ちよかったんだね!」
「おう、よかったな」
「なによ~冷たいなあラッシュは」
 くすくす笑って、ディアナはそっとラッシュの手を離した。そして二歩三歩と、土の感触を確かめるように歩き出す。
「端まで行くなよ?」
「分かってる分かってる。もう子供じゃないんだから」
 口ではそういいながらとても今を楽しんでいるらしかった。ディアナは時々よろつきながらもそこらを歩き回り、家の周囲を一周した辺りでおもむろに木陰に座り込む。心配そうに目で彼女を追っていたラッシュも、少し遅れてその隣までやってきた。
「隣、いいか?」
「うん。ありがとう、いい運動になったわ」
「そっか。よかったな」
 白い歯を見せるとラッシュはその場に膝を立てて座り込んだ。行儀が悪いと散々怒られたが、この姿勢でないと落ち着かないのだから仕方ない。


「でもよかったな、出歩けるようになって」
「ホントね。自分でも、まさか部屋から出られなくなるなんて思ってなかったから」
 そこまで言うと、ディアナはラッシュに向かって小さく頭を下げた。
「な、なんだよ」
「謝っても仕方ないのは分かってるの。ラッシュが私の命を助けてくれたことにもちゃんとお礼が言えてないのに、その前に姿を見て失神するなんて、その……ごめんなさいっ!」
 ますます頭を下げるディアナの両肩をとっさに掴んで、ラッシュはそれを引き戻した。そして大きく頭を横に数回振ってみせると、分かってる、と口にした。
「お前がその、戦争に対するものを体が嫌がるのは分かるぜ。今でもそういう人、いるらしいからさ。商人に聞いた」
「私だけじゃなかったんだ……」
「つらいなら話、聞いてみたらいいんじゃねえの? 同じようなことを悩んでるやつらの」
「ううん、たぶんもう、大丈夫だから」
「……そっか」
 ディアナの笑顔からは、まだ無理をしているように思えた。幼い頃から多くの人間の顔を伺って生きてきたラッシュのことだ。鈍感だといわれてもそれくらいなら分かる。
 だが彼女自身がそう言ったのだから、ディアナが必要としているのは自分じゃない。そうでなくても彼女の周りには頼れる仲間がいるのだ。だからこそラッシュは、安心して頷くことができたのだった。


「でもよ、オレが助けたのだってくじで当たったみたいなもんだからな」
「だったらとんでもないハズレくじよね」
「んだと……せっかくオレなりに気を利かせてなあ」
 懸命に考えた言い回しを茶化されて渋い顔をするラッシュと対照的に声をあげて笑うディアナ。病後とは思えない明るい笑顔に、ラッシュは自分が帰ってきた後の彼女を想像した。
 そしてディアナにはそのことを話していないのでは、と思い当たったのだ。
「まあそのハズレくじはしばらく旅に出るんだけどな」
「えっ、もしかして傷心旅行?」
「んなわけあるか。ドラゴンを探しに行くんだってさ。いただろ、カーナの戦竜たちだよ。ビュウが何を始めるにもそこからだって。だからオレたちもついてく」
「そっか。そうだよね」
 いたずらじみたディアナの笑顔が、ラッシュの話が進むほど暗いものになっていく。これも仕方のないことなのだ。平和に過ごすこのひとこまも、やがて戦争中の思い出として語られることになるのかもしれないのだから。
「私、自分ばっかりがつらいんだと思ってた。赤い花も、赤い夕日も、ラッシュのマントだって怖くてずっとベッドに篭ってて。みんなつらいんだよね、何でもなかったみたいに笑ってるだけで」
「そんなに思いつめんなよ。お前、ディアナもできることからやってけばいいんだし。要はそういうことだろ?」
 ラッシュの笑顔につられるように、ディアナはまだどこか歪な笑顔を浮かべた。心配そうに手を揉む姿に、ラッシュの胸はざわめきたつ。その気持ちを唾と共に飲み込んで、彼はディアナの言葉を待った。
「じゃあ、まずはちゃんとラッシュを見送りたいな。出発っていつ?」
「今日だ」
「えっ?」
「それにテードにいるドラゴンはサラマンダー1匹だぜ」
「あっ……」
 揉んでいた手が固まる。ついで肩ががくんと落ち、艶を失った髪がぱらぱらと顔にかかる。なんとなく笑顔を失ったディアナの顔を見たくなくて、ラッシュはとっさに彼女の手を握った。病み上がりのせいかショックのせいか、生きてる人とは思えない冷たさに首筋がぞくりとする。だが歪んだ表情を持ち前の明るさでひた隠すと、ラッシュは敢えて冷たい手を覆うようにしてしっかり握った。
「気を落とすなって。言っただろ、できることからやればいいって」
「ラッシュ……。ありがとう。私、自分が思ってたよりまだまだ弱ってるみたい」
 ラッシュの手のぬくもりに溶け出すように、ディアナの口からは自然と言葉がこぼれ落ちる。だが今はまだ彼女を見守る場面だ。素直にディアナが笑えないなら、その分自分が笑ってやればいい。


「分かってるなら十分だろ。ほら、ゾラが呼びにきたぜ」
周りから見れば不自然な笑顔に、ディアナはただくすりと微笑む。しかしそれが彼女の時を動かしたのか、振り向くと突然立ち上がった。気づけば彼らの元にも、ベーコンの焼けるいい匂いが漂っていた。
「あっ! ごめんねラッシュ、ちょっと私、ゾラに用事が」
「オレに構うなって。行ってこいよ」
 ラッシュの言葉に背中を押されて走りだすディアナ。そんな彼女の背中を目で追いながら、ラッシュは確実に流れていく時間を改めて意識したのだった。

思い出たちに手を振って
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ディアナが抱えていた本の正体もゾラとディアナの間でどういうやり取りがされていたかも回収されません!ごめんね!
というわけでラシュディアです。長さの関係で分割しました。初めてじゃないかな中篇もどき……。
どうしてもお題を消化したかったので、「あみだくじ」「要はそういうことだ」を突っ込みました。頑張った。
変わらず恋愛とは程遠い二人ですが、信頼を得るところまでいったらゴールかな、とも思わなくもないです。この関係性が好きです。
いつも明るく元気なディアナを弱らせてみたかったのは私の趣味です!!!
170927



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