Novel / 紙面上の恋人


「気になる人と交換日記をすると恋人になれる」

 そう言い出したのはいつだっただろうか。時期は忘れてしまったが、理由ははっきり覚えている。とある男から、どうにかして気になる女の子のことを知りたいと相談されたのだ。
 あまり期待するなよと保険をかけて、日記帳を渡してからどれだけ経っただろう。広いようで狭い船の中で、ただの日記帳は恋が叶う噂のもとになっていたのだった。


 かちゃり。
 いまいちかみ合わせの悪い鍵がかかったのを確かめて、ビュウはテーブルに向かった。
 夜の帳はすっかり下りていて、ランプをつけて初めてぼんやりとテーブルに自分の影が伸びる。と同時に手付かずの書類の山が映し出され、口から自然にため息が漏れた。
「今日は何時に寝付けるかな…………?」
 タイミングの悪いことに、今日は特に書類が多かった。基本は目を通して判を押すだけとはいえ、書類の大部分はクルーの給料に関わるもののようだ。まったく艦長代理も楽じゃないな、と苦笑とともに椅子に座ろうとして、その目線の先に見慣れないものがおいてあることにそこでやっと気づいた。
「日記帳、だな。それも無記名だ」
 まるで書かれることを望んでいるかのように、その日記帳は書類を押しのけてテーブルの真ん中に鎮座していた。ビュウは椅子に座ると手にとって、それが見慣れた日記帳だと確かめた。
「俺のは……あるな」
 少しだけ視線を動かすと、ビュウはチェストの鍵を開け中身の無事を確かめた。紺色に染色された安い革張りの日記帳の表紙には、確かに自分の名前が書いてある。そうでなくても鍵を開けられた手ごたえはなかった。
 ただの航海日誌とはいえ、数少ない私物を漁られていないことに安堵の息が漏れる。とにかく事件性はないと、チェストに鍵を掛けなおしてから持ち主不明の日記帳をぱらぱらとめくる。真新しい紙の匂いが鼻腔をくすぐったのも一瞬、ページをめくる手がぴたりと止まった。
「交換日記を、してください――?」
 自分でも驚くくらい、唸るような声が喉を震わせた。
 わざわざ見つけて欲しかったのか、ろくに折り目もついていない日記の最初の1ページ目。それでも持ち主は隠したかったのか、誰の特徴にも合致しなさそうな角ばった文字でただそれだけが書いてある。
「困ったな……」
 見ない振りをするように日記帳を閉じて、ビュウはドアを振り返った。確かにこの部屋は彼の私室だったが、盗られて困るようなものもなければ鍵自体、クルーの詰め所に行けば借りられる。目の前にこうして書類が積まれるのがいい証拠だ。
 うーん、と少しだけ考えて、ビュウはペン立てに手を伸ばした。書き慣れた万年筆を片手に、再びその日記帳を押し広げる。
 不思議と悪い気はしなかった。全てはあくびをしたくなるくらい、のどかな航海のもたらした気まぐれなのだ。

***

「……で、わざわざお迎えにきたのかい、王子様」
「なんだその含みのある言い方。少なくともジャンヌじゃなさそうだな、どうも」
「ちょっとちょっと、聞くだけ聞いてそれだけ? つまんないの」
「遊びにきたわけじゃないんだ、目星が外れたら次にいくだけさ」
 椅子から腰を浮かせ、なおも食ってかかろうとするジャンヌに人のいい笑顔でビュウは答えた。発言に嘘はないし、当たりから遠そうな人に聞くことで安心を得たかった――などと本人に正直に打ち明けたらさすがに傷つくだろうか。
 それに彼女の人当たりのよさに縋ってみるのも悪くない。背を向けようとして、ビュウは踏みとどまると彼女の座っているカウンターチェアの背もたれに手を掛けた。自然と近寄る距離に、ジャンヌの視線は自然と上向く。
「君なら知ってるかもと思ってね。交換日記の噂こそ、女の子が好きそうだろ?」
「頼りにされるのは嬉しいし確かにはしゃいでる子はいるけど……」
 ジャンヌの鋭い色を宿した瞳がきらりと光る。だがそれもすぐ影を落とし、代わりにこぼれたため息からは甘い匂いが鼻先をくすぐった。昼間からカクテルを嗜むのもどうかと言ったところで、聞くようならば彼女はここにいないだろう。
「できる女は簡単に話を漏らしたりしないのよ? ……まあ、書いてるだろうって子なら教えてあげるわ」
「助かるよ。じゃあ――」
 困った人を見過ごせない。そんなジャンヌの優しさに微笑むと、ビュウはジーンズのポケットから指先で銅貨を探り当てる。それを二枚、飲み干されたカクテルグラスの隣に置いて、自身も隣のチェアに浅く腰掛けた。
「情報料だ。でも飲みすぎるなよ?」


 バタン、とドアを後ろ手で閉めて、ビュウはたまらず深いため息をついた。
「参ったな」
 事態は解決していない。その上、聞いて回ったことで話を余計面倒なことにした気がしてならなかった。ジャンヌの言うことは間違ってはいなかった。だが彼女らの恋路が上手く行くように、と心中祈ってやることが今の自分にはできないのが何とも情けない。
 悪化していく事態を自身の手で解決すべきだろうか。そんなことを考えつつも足はふらふらと力なく廊下を進む。男の大部屋に差し掛かったところで、ビュウの耳に聞きなれた声が飛び込んできた。
「ビュウ! どうしたの、そんなにフラフラして?」
「……ヨヨ」
「本当に参ってるって顔ね、何をやらかしたの?」
「真剣には心配してくれないんだな」
 乾いた笑いが漏れるが悪い気はしない。むしろこの状況を笑い飛ばしてくれた方が気が楽だ。それを当たり前に受け入れてくれる彼女には感謝しかなかった。
「そんな性格じゃないのに? いいの、私も気分転換をしたかったところなの。付き合ってくれるわよね?」
「ああ……風にでも当たりたい気分だよ」
 ヨヨはちょうど自室から出てきたところだったようだ。このまま引き返させるのも何だと、とりあえず手招いたところでビュウの目はある一箇所に釘付けになった。
「……それ」
「やっぱり。ビュウがやったのね?」
 悪戯じみたヨヨの笑顔。残念ながら答えはひとつしかない。わざとらしくのぞき込んでくる緑の瞳から逃れるように視線を逸らして、ビュウは困ったように笑った。
「そうだよ、暇つぶしさ」
「自分に来るとは思ってないあたりがビュウらしいわね。これ、受け取ってくれるかしら?」
 くすくす笑いながら差し出されたのは、見覚えのある緑色の日記帳だ。こういうことにちゃっかり乗っかるあたりが、彼女の茶目っ気を感じさせる。だが今、これ以上見たくない物もないだろう。ビュウの口からため息が漏れ出た。
「面倒ごとはこれ以上勘弁してくれ」
「ふふっ、何も私から、なんて言ってないのにね」
「どういうことだ?」
「私もあなたと同じ、ってこと。せっかくだから道具屋に行こうと思ってたの。だからビュウも、続けてあげたら?」
「すでに書いてみたよ。朝、起きたら既になかったんだ」
「だから、わざわざ自分の足で探し回ってるのね。素敵じゃない、そこまで積極的な人に好かれるなんて」
 にこにこと上機嫌で話をヨヨは話を続ける。だがそれは艦内の人間相手だから問題ないと言いたいのではない。ただ個人的な興味のために、ビュウが困惑する様子を見ていたいに違いない。それに何度惑わされてきたのか、数えるのはとうの昔にやめていた。
「正体の分からない人を相手にか?」
「あら、私なら知ってるわ。正解したら、気分転換に付き合ってくれる?」
「……最初からそれが目的なんだろ?」
 初めからこうなる予定だったのか、ヨヨの笑顔に含みを感じた。これが彼女に日記を渡した人ならば、面白いほど喰らいつくだろう。そうならないのも二人の関係ゆえだと笑みをこぼしつつ、ビュウはただ頷くしかないのだった。


 慎重に閉めたドアに背を預けて、ビュウはしばらく動けずにいた。
「まさかとは思ったが……そのまさかとはな」
 自室は数少ない安らぎの場所だ。だがそこに持ち込まれたひとつの日記帳が、ここまで心を惑わせるとは思っていなかったのだ。それこそ自業自得だと言いたげな、別れ際に投げかけられたヨヨの微笑みがちくりと胸を刺した。
「冗談でもドラゴンに食わせるのは……なしだよな」
 本当にどうなるかわからないもんな、と胸中で呟いてビュウはドアを離れる。
 目線はずっと、デスクの上の日記帳に留まっていた。

「最近ね、センダックが妙にそわそわしてるの。こういうとき、隠し事ができないって不便よね。 ねえ、ビュウはどうするの?」
 ヨヨの声が頭の中で木霊する。日記帳を手にとって、ビュウは両目を瞑ると丁寧にページをめくっていく。
 まだ真新しい紙の匂いに、ふわりと花の香りが混じる。記憶を辿れば、確かに船長室に生けてある百合が放つ香りと同じだ。ますます色濃くなる事実にビュウの表情に困惑が浮かぶ。だがそんな彼の思考を遮るように、指先に何かが当たった。
「――はは、センダックらしいや」
 覚悟をして目を開けると、それは押し花のしおりだった。そういえば「枯れるままにするのはもったいないよ」とセンダックがこぼしていた気がする。それを何に使うのかまでは気にしていなかったが、まさか自分に回ってくるとは。
 しおりをひとしきり眺めてから、ビュウはその下に書かれた文字を読み上げた。冒頭はセンダックらしく、謝罪から始まっていた。
「突然、こんなことをしてごめんなさい。ビュウ、びっくりしたよね? このしおりは、昨日作ったものです。もっとたくさんあるんだけど、使う先がなくて……。 交換日記って何を書いたらいいんだろうね。とりあえず、花瓶に生けてある百合の花をスケッチしてみます。良ければお返事ください。センダックより」
「――これじゃただの手紙じゃないか」
 思わずふふっと笑ってしまう。紙面を息が撫でると、点々とついた赤い花粉を綺麗に飛ばした。
 そもそも、長いこと生活を共にした上で交換日記をこなせというのは、中々困難などではないか。当事者になって初めて気づく難題に、ビュウは小さく唸ってから椅子を引いた。
「自分が撒いた種だ、とりあえず書いてみるか。話題はあるんだ、どうにかなるさ」
 そう呟いて、万年筆を取り上げる。その顔には、自然な笑みが浮かんでいたのだった。

紙面上の恋人
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6/12は恋人の日と日記の日が重なっているらしい。でなぜこうなるんだ……!
文字の上なら饒舌な人もいるとは思うんですが、センダックはどちらにしても苦手だと思うんですよね。交換日記なんてしたことなんてなさそうなので余計。
でもビュウ幼少時に手紙のやりとりはしてそうな気がするので、やりとりするうちに思い出話に花が咲いたりするんでしょう。なごやか。
20200630



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