眠い。驚くほど眠い。
春だからか、と思い浮かべて彼は即座にそれを打ち消した。
彼のために地下に設われた書庫で、彼は夕食後からここに篭って調べ物に没頭していた。
それが何なのかは、彼のみぞ知る。
地下特有の淀んだ空気を入れ替えるために設えた換気口から春の暖かな空気が取り込まれ、彼の顔と髪をそっと撫でる。
彼はその風の吹く方を見上げながら、知らぬ間に外がすっかり芽吹きの季節になっていたのだとそっと目を細めた。
「そうですか、もう新緑の季節ですか……」
彼はそう呟いて立ち上がると、書庫の端に設置された伝令管へ歩を進めた。
「ラッシュ、ラッシュはいますか?」
彼が声を掛けてから十秒ほど、管に耳を寄せて沈黙していたその空気をつんざく様な声が向こうから聞こえてきた。
「何だよトゥルース、コーヒーでも欲しいのか?」
「……だからラッシュ、そんなに声を張り上げなくても十分聞こえてますって」
何故作業台から遠く離れた場所に伝令管を置いたのか、まさかこうなるだろうとの事態を予想してはいたのだが……。余りにも予想が予想通り過ぎてトゥルースと呼ばれた青年はくすりと微笑んだ。
「いえラッシュ、作業が長引きそうなので仮眠を取ろうと思うのですが」
「なんだよそんな事か、俺に任せろって!」
「……そう自身満々になられると、逆に不安ではあるんですが。では2時間後にお願いします」
「起こすときに暖かい物とかいるか?」
「ええ、そうしてくれると有難いです。それでは」
ラッシュのやり取りを終えると、トゥルースは再び作業台に戻った。
足元の籠に丁寧に畳まれたタオルケットを背中に掛け、机上のランプの灯を最小まで落とすと、彼は自らの腕を枕代わりにしてそっと眠りについた。
***
「ううーん、んーっ、んあ……っ」
ラッシュはその場で思いっきり伸びをした。目尻に涙が浮かぶ。
部屋に掛けられた時計は午前一時半を差している。部屋はすでに薄暗く、ラッシュと談笑していたビッケバッケはすでにベッドに潜ってしまった。自分が言い出したからには約束は守らねばならぬのだが、ラッシュはこの時少しばかり約束した事を後悔していた。
「時間だよな、よし起こしにいってやるか」
ラッシュはコンロに燃料を突っ込むと、戸棚からコップを二つ取り出した。
「少しくらい一緒に話しても、別にあいつの邪魔にはならねーよな?」
時間通りに現れた自分に驚くだろうか、などと考えながら、ラッシュは小さく口笛を吹いた。
片手にトレイを、片手にロウソク立てを持ってラッシュは器用に地下への階段を下りてゆく。
ここに来る事自体、それこそ片手で数えるほどしかなかったが、暗闇が目にすっかり慣れているこの状況で必要以上の灯りは不要だった。
「さてさてトゥルースは、っと。いたいたトゥルー……ス……?」
ラッシュはいつもの調子でトゥルースに近づいたが、そこで異変に気がついた。
ロウソクの明かりを必要限界まで近づけても、コーヒーの芳しい香りをギリギリまで近づけても、トゥルースは身動ぎひとつしないのだ。自分たち三人の中で一番警戒心の高く、あらゆる細かい変化にいち早く気付く彼がここまで気付かない理由はただ一つ。
「熟睡してんのかトゥルース……」
トレイとロウソク立てをゆっくり机に置くと、ラッシュは起こすべきかどうか思巡した。
トゥルースの意向で時計すら置かれていないこの地下室で今聞こえてくるのは、ランプのオイルの焼ける微かな音と彼の浅い息遣いだけ。
ロウソクの灯の淡い炎に照らされたトゥルースの顔は、さながらそこに時間と共に忘れ去られた球体間接人形のそれのようで、ラッシュは息を呑んでその絵画のような情景を眺めていた。
瞳を飾る長く艶のある睫毛、なだらかな山のようであり、尚且つ筋の通った鼻、薄く品のある桜色をした唇、それらを収める白磁のような滑らかな肌――
「……っと」
トゥルースの肌に後一歩で触れようかという所で、ラッシュは我に返って一歩退いた。
目線は相変わらずトゥルースの顔に注がれ続けている。
「こんだけぐっすり寝てるなら、わざわざ起こすのも可愛そう、か?」
ラッシュは呟くと、机からトレーとロウソク立てを取り上げようとし、そこで何かを思い立ったのか再びトゥルースの顔に唇を限界まで寄せると、形の整った耳にそっと口づけをして囁いた。
「こんなにいい物も見せてもらったことだし、な」
ラッシュの立ち去ったその空間で、頼りないランプの灯火だけが二人の風景を記憶していた。
で、次の日「どうして起こしてくれなかったんですか!」「だってトゥルース気持ちよさそうに寝てたし」「お陰で調べ物が終わらなかったではないですか!」「そんな生き急いでもいい事ないぜッ!」「……ビッケバッケ、ラッシュの朝食は抜きでもいいですよ」「ちょっと待てよ!そんなバカな!」
ってオチがあったりなかったり。でもトゥルースに昨日の事は敢えて教えないラッシュとか。いいよね。
という訳で短編、元ネタは「仮眠をとるつもりで朝を迎えるまでのふたり」でした。
2012/04/23