白く凍えるような風が廊下をさらう。その後を歩く男の歩調は、普段なら決して取らないリズムを刻んでいた。
「いやあ、誰かと思ったらアンタか、珍しいな。表に何の用だ?」
「ふんふん……。いや、私用だ」
早朝の艦内は驚くほど寒い。物珍しいものでも見るように顔を出した武器屋の老夫婦に手を振ると、男は後ろで一本に束ねた長髪を揺らしながら彼の仕事場へと戻っていく。
「エンジンの調子が悪い……わけじゃないみたいだねえ」
「……見たかいばあさん。あの顔、きっと今日は何か起こるよ」
厚着に手袋姿の老夫婦はわざわざ廊下に出て、男の足取りを目で追っていた。人の気配も明かりもない、薄暗い廊下に不釣り合いな鼻歌に二人は顔をつきあわせたのだった。
「この年で親の気持ちになれるなんて思ってもなかったな。あいつに感謝……は、後でいいか」
いつもなら物寂しい、空っぽのブリッジが今だけは生命の誕生を祝う薄明かりのベールに包まれている気持ちになれた。いや、これからは毎日こんな幸せな気持ちで朝を迎えることができるのだ。
誰よりも早く。
と同時に初めて味わう不安に男はたまらず振り返った。ぬくもりを感じさせない石造りの廊下。その先で寒風に吹かれながら、幼子は今も耐えているはずなのだ。
「寒がってないかな……いや、あいつには両親がいる。大丈夫だろう」
数歩進んでは立ち止まり、唸ったかと思うと足踏みをする。結局男は諦めるようにため息をつくと、長いこと表に出ていた体を温めようとシャワー室に向かった。
***
「――ホーネット!」
乱暴に開けられるブリッジへの引き戸。力に耐えられずがん、とうるさい金属音を響かせながら戻ってくるそれを煩わしそうに男は片手で引き留めた。
と同時にガシャンと陶器が割れるわずかな音をホーネットは聞き逃さなかった。
――センダックか、かわいそうなやつだ。
元とはいえ、原因は自分が起こした行動にある。今はただの被害者である老人への労りの気持ちを艦長室のドアの向こうに飛ばしきるより早く、怒声の主は大股でこちらへ近づいてきていた。
今はあいにく他の人間は出払っている。天気の穏やかな午前中、カーナ解放を終えて意気揚々と飛び立ったファーレンハイトの面々は、揃って気が緩んでいるようだった。
それは自分も同じなのだが。
「ホーネット、少し面を貸せ」
「おいおいビュウどうした、お前らしくな――」
三歩前からの踏み込み、ギリギリ手の届く距離。何も構えていないはずの自然体のビュウの右手が空を切り突き出されたかと思うと、俺の襟元を見事に掴んでいた。
今二人の表情をいい表すならばまさに天使と悪魔だ。悪魔どころかそのまま地獄にたたき込みそうな気迫すら感じられる。
「――――冗談きついぜ」
「だったら、俺も良かったんだけどな」
日常を事なかれ主義で応対するビュウらしくない、重い感情を乗せた口は動く。勝てない勝負に賭けるのはもうたくさんだ、と俺は早々に白旗をあげることにした。
「……わかった、わかったから手は離せ」
「その割に避けようとしたな」
「そりゃあ……身の危険を感じたら、小動物でも逃げるだろうよ」
あくまでも涼しい笑顔で対応しても、ビュウの凝り固まった表情は一向にほぐれる気配がない。いつもなら苦笑のひとつでも返してくれる冗談もさらりと流して、ビュウは手は離しても眉一つ動かさず元来た道を指し示したのだった。
結局手の空いているクルーたちに留守を頼んだ俺は、見えない鎖をつけられたままビュウの後を歩いていた。前を歩いていたビュウが立ち止まったドアに掲げられたプレートには「資料室」と書かれている。別名作戦室、多くの人間にとって用はないか、こっそり隠れて昼寝をするに限るだろう。クルーがサボって寝てたりするらしい。
「……誰かがいた気配があるな」
部屋のスイッチがかちりと入る。むき出しの配線からつながる裸電球がおぼろげな光を部屋に投じる。その真下には円卓があり、ここで顔を合わせて会議をしていたのだろう。もっとも今となっては出番はなさそうだが。
ビュウが相変わらず調子の上がらない声でそう呟く。答え合わせをする必要もないのか、六席ある椅子のうち一つだけが引き出された跡があった。ご丁寧に膝掛けが机にのったままだ。
「こりゃあ、クルーだな。さっき呼び出した中にいよだれ跡がそのままなのがいたからな。なんでもここがいいサボり場所なんだとさ」
「守秘義務も何もあったもんじゃないな。重大な資料はセンダックに預けていて正解だったな……」
参ったとばかりに頭をかきながらビュウはぼやく。ついでにとばかりに引き出された席に腰をかけ、さてと俺は声をかける。まるで初めからビュウを呼び出したような雰囲気だ。
だがそんな小さな笑いも、今の彼には通じそうにない。後ろ手で閉めたドアの前に立ちふさがるビュウの表情は氷の仮面を被っているようだ。
お世辞にも広いとは言えない部屋にふたり、これが男女なら秘密の逢瀬とでも言えそうだが、今から始まるのは俺の断罪式なのだ。
「それで何の用だ……とすっとぼけるのも無理な話だな。すべてはタイミングだ、そうだろ? お前ひとりを起こすために全員を巻き込むワケにもいかないし、部屋のドアをしつこいほど叩いたがお前は起きてこなかった。ソレがすべてだ」
「それでもはっきり言わせろ。約束が違う」
毅然としてビュウは言い放つ。眉間に寄る皺が乏しい明かりに照らされて陰影を作っている。
日頃波風を立てずに過ごすようにしている彼にしては、珍しいくらい感情を露わにする様子に、俺はいとも簡単に頭を下げた。
「……すまない。軽率だった。せっかく挽回するつもりで約束を飲んだのにな」
「まったくだ」
ゆっくり顔を上げた先で、ビュウは珍しく右手のリストバンドを外していた。その指先の震え方から、彼の心境は嫌というほど見て取れる。
「今から一発殴ってもいいくらいだけどな」
「目だけは避けてくれ、商売道具だからな」
握ってはほぐす手の動きからとねっとりと外されたビュウの目線は、それでも俺を食って離そうとはしなかった。ここですぐ殴りかかってくるような男ではないと理解しているからこその交渉に、握りこぶしを作ったままビュウは足音も立てずに近づいてくる。
こうなってしまえばビュウの提案すべてを飲まねばならないだろう。与えられた安息を取り上げられる恐怖に引きつる瞼に、ビュウはにんまりと笑った。
「確かにここで一発殴った方がすっきりするのは分かる。同じようにお前のことを酒のネタにして笑い話にしても構わない。だけどホーネットが恐れているのはどちらでもない。そうだろ?」
「……そうだと言ったら?」
ずい、とビュウが一歩踏み出した。距離は体半分もなく、打ち合った膝が過剰に反応してびくりと怯える。あからさまな余裕のなさに、ビュウは面白くて仕方ないと言いたげに笑った。性格の悪いやつめ。
「――はは、少しは俺の気持ちが分かったか?」
「そのつもりだ、だから俺も我慢できなかったんだ」
本心を隠さずに俺は答えた。定めたはずのルールを当然のように破ることにすっかり呆れていたのだが、あの時ブリッジから見えたドラゴンの赤ちゃんの姿にいてもたってもいられなくなったのだ。
厚い雲の合間から伸びる天使の梯子。それは新たな命を照らし、まだ濡れそぼるオレンジ色の産毛は小さな太陽のように輝いていた。
それに何を覚えたのかと聞かれても、未だ俺は理解できていない。ただこの世に生まれた小さな天使の姿に、激しく心を打たれたのだと答えることしかできないのだ。
――それを目の前の「人間ママ」に告げるには時間がかかりそうだが。
「……行くか、パピーのところに」
「パピー……?」
回想している間にずいぶん時間が経っていたらしい。ビュウの突然の提案に俺は現実に引き戻される。と同時に襲いかかる新たな事実を確認しようとすると、必要以上に眉間に力が入った。
「ドラゴンベビーの名前だ。いいだろ?」
「いいだろ、って……!」
当然のようにさらりと答えて、ビュウはいつもの爽やかな笑みをこちらに向けた。どうしてこう人の感情を逆なでするのが得意なのだろうか、こいつは。
「これが約束を破った罰だ、って言ったらどうだ?」
「…………ああ」
笑顔を崩さず、ビュウは話の精算をしようとする。名前を白紙に戻す提案はできるとはいえ、彼から歩み寄ってくれている以上それで許されるなら受け入れるのが一番だ。
含みを持たせて大きく頷いた俺の顔を見て、ビュウもまた首を縦に振る。これで話は丸く収まったのだから、こうなれば少しでも早く甲板に出たい。
「くくっ……くくく、ははははっ!」
「な、なんだビュウ突然」
「何大真面目な顔して受け入れてるんだホーネット、ドラゴンの名前はすべて俺が決める。そういう不文律だろ?」
「なっ……?!」
思うとおりに進みすぎて、ビュウは我慢ができなかったのだろう。腹を抱えて笑うごとに、彼の体は俺からゆっくり離れていく。しゃべる間も笑いは止まらず、そのうち目尻に涙が浮かび始める。そのまま腹筋がつってしまえばいいのに。
「じゃあ俺の罰はいつ……」
「ははは、はあ……。どうしてやってもいいんだけどな。ホーネットが先にパピーを見てしまった以上、責任を取ってもらわないといけない。そうだろ、人間パパさん」
「――おう」
今のビュウにとって、俺のやらかしなど対したことではないのだろう。こちらとしても助かるが、何より目の前の幼子を前に言い合いなどしていたら教育に悪い。
――などと我が子のように考えるくらい、俺はパピーに入れ込んでいるみたいだ。
「…………ネット、ホーネット?」
「んっ?!」
「何ぼーっとしてるんだ、行くんだろ?」
「おう!」
一人の時間は考え事をするのに十分だ。だがそれが長いと、こうして思考の沼にはまってしまうのだろう。気づけばドアを開けて振り返るビュウの声に引き戻されて、俺は表情を繕うことをやめて彼の後に続いた。
この先どうなるかは誰にも分からない。ただ確かなことがあるとするならば、俺は一度失ったはずの命への愛情を育む資格を得たことに違いない。
……ビュウと一緒に。
「……なあビュウ」
「なんだ? ……あっ、言っておくが餌をあげるのは俺の役目だからな」
「んッ」
幸先のいい出だしだと思っていたら、前を歩くビュウから突然釘を刺された。確かに自信はドラゴンのことに関しては全くの無知だ。パピーが生まれるまで興味の鱗片も持たずに来たのだから仕方がないとはいえ、目の前でそう告げられると資格を取り上げられた気がして萎えてしまいそうだ。
「ただでさえ初めてのことばかりなんだ、慣れる時間をくれ」
「……なるほどな」
思い込みとは恐ろしい。たまらず直談判しそうになったところで、ビュウは気恥ずかしそうにはにかんでそう言った。彼ですら慣れないことなら、自分が追いつくのはいつの話になるだろうか。
「――いつもみたいに茶化さないんだな」
やけに長く感じる廊下を抜け、商店を過ぎれば甲板へ続くドアは目と鼻の先だ。そこまで来て、ビュウは振り返ると感心したと言いたげに頷いた。そんな彼の方を軽く叩いて俺は前へ出る。いつもの青草とドラゴンの匂いが混ざった風を胸いっぱいに吸って、俺は喜びに満ちた笑顔をビュウに向けたのだった。
「これからは共同作業だろ、人間ママさんよ」
「……ああ、そうだな」
返事と共に、ビュウの表情が笑顔でゆがむ。と同時に甲高いドラゴンの声が次々に飛び込んできた。合わせ鏡のように前を向くと、我先にと競い合いつつ陽光の下へ飛び出したのだった。
という名の新たな始まり。
30日ライティングチャレンジの続き(リンク先は私のプライベッターです)と、投稿直後のアンケートの結果を反映して書いてみました。
公式でここまで夫婦です!!と言い切るのも珍しいと思うので、いっそのことここから堂々と(ドラゴンの)夫婦として傍にいてもいいんじゃないかなあと思うんですよ。
問題があるとすればエンディングまでの短さくらいですかね。そのあとどうなったのか教えてください……。
2021/03/07