Novel / 「……逃げる?」


「……逃げる?」
ユーリの口から突然発せられた不穏な言葉に、トゥルースは眉を顰めた。ビッケバッケは状況が理解できていないのか、二人の顔を交互に見ているだけだ。
だが、あくまでも冷静にユーリは言葉を続ける。
「言ったとは思うが、おれらは結局見逃されてるに過ぎないんだよ。ちょっとでも町を汚してないか、騒ぎごとを起こしてないか、大人がどこかで見張ってるんだ」
「それじゃあ、もしかしたらさっきの……」
「かもしれない。優しければ町の大人が声をかけて終わり、だけど」
「……だけど?」
視線が下がり、顔にかかる影がいっそうユーリの感情を反映しているように見える。
重なる声に、力なく顔をあげると彼は奥へまっすぐ続く路地を指差した。
「ここにはたまに見回りの騎士が来るんだ。捕まったら……分かるよな?」
彼の目がちらりと二人を一瞥する。返事の変わりにごくりと唾を飲んだのはビッケバッケだろうか。けれどそれは、決してユーリに怯えたわけではない。

路地で暮らし、少しずつ物を貰って生きている彼らの存在は、程度と気まぐれで簡単に送ることができた。
数日牢屋に入れられて反省を促され、必死に探さなくても食事と水を得ることができる。その上そこで寝起きをする以上は、野良犬や酔っ払いに襲われることもない。
だが、それでも彼らはここよりずっと危険な外での暮らしに戻っていく。理由は様々だが、大概の子供は憐憫の目を向けられながら大人の都合で生かされることを嫌っていた。
けれど目の前にいるユーリたちは、敢えてその生活を選ぼうとしている。良いか悪いかは本人たちが決めることだが、受け入れられ安全な暮らしを送ることができるなら選ばない手はない。これは彼らにとって、幸せを掴むチャンスなのだ。


「―-君たちかな、連絡にあった子たちっていうのは」
「あっ……!」
まだ若い男の声が、曲がり角の向こうからやけに大きく聞こえた。思わず壁に体を寄せて息を止める。ゆったりと、それでいてはっきりした声は不思議と彼らに警戒心を出ださせた。息を呑んだのは向こうも同じらしい。ぴたりと止まった空気を動かしたのは男ではなく、ラッシュに喧嘩を吹っかけていたヒューズの声だった。
「オレらじゃないよな、なっアーシャ?」
「そうだね。お兄さん、ぼくたちに見覚えあるでしょう」
「うーん、どうだったかな。でも君たち三人組じゃなかったっけ?」
「それなら! ユーリならすぐそこに……あっ、ハリスさん。お騒がせしてすみません」
「いや、構わないよ。警邏を呼んだのは私なんだから」
路地を覗き込む三人の目に、一瞬恰幅のいい男の姿がよぎる。思わぬ大人の登場に視線がかみ合う二人の感情を取り持つように、静かにユーリは囁いた。
「……あの人は、この辺りで力があるんだ。きっと見回りを呼んだのもあの人なんだろうな。だから分かったろ、ほら」
ぐい、とユーリは二人の服の袖を掴んで動くように行動で示した。困惑の表情を浮かべる二人に向けて、彼は小さく頷いて少し遠くに見える塔を見上げた。
「……この路地を真っ直ぐいけば塔までは迷わず行ける。そこで大人しくしてれば、少なくとも捕まらないはずだから。早く行けよ」
「あの、ユーリさん――」
「トゥルース、行こう」
「あっ、はい」
突然ビッケバッケに手を引かれ、トゥルースはついにユーリの表情を見ることも礼をすることも叶わず小走りで駆けだした。彼らにとっては自分たちは侵入者であり、もう少し気を引いていれば纏めて捕まえさせ、身の安全を図ることができたはずだ。
前を走るビッケバッケは振り向きもしない。ただ、視線を下げてできる限り平坦な場所を選んで走っているらしく少しでも踏ん張れば止めることはできそうだった。
そもそもラッシュは置いてきぼりだ。トゥルースは再会に時間がかかることより、より大人に反抗的なラッシュがやらかさないかを心配していた。
握った手に力が入る。止まろうか悩んだ思考の隙間に、聞き覚えのある声が飛び込んできた。
「――おい! 待てって!」
「ラッシュ……! おっと」
「今は急ごう」
ぐい。
再び引かれたビッケバッケの手には、明らかな力が篭っている。確実に助かるための最善が今の彼を支配しているのだろうか。後ろから少しずつ迫ってくる、石畳を荒々しく蹴る音に後ろ髪を引かれつつ二人は走り続けたのだった。


「はあ、はあ……」
「大丈夫、トゥルース?」
「ええ、なんとか。それより……」
うるさいくらいに早鐘を打つ心臓を押さえて、トゥルースは元きた道に視線をやる。ひたすら真っ直ぐかと思っていた路地裏は緩やかにカーブを描いていて、すぐにラッシュの姿を確認できそうにはなかった。
「トゥルースは本当に、ラッシュのことが心配なんだね」
「ビッケバッケは……」
――心配するほどの関係ではない、と?
言いかけてトゥルースは唾ごとそれを飲み込んだ。彼が言いたいことはもっと別の意味を持つのかもしれない。ただ今は心配のあまり冷静さを欠いているのも事実だ。トゥルースは深呼吸で平静を取り戻そうとした。
「トゥルース! ビッケバッケ!」
「ラッシュ!」
だがそこに飛び出した極端に尖った金髪が、二人の口から喜びの声を引き出した。トゥルースの目がちらりと横を見たのも一瞬、ビッケバッケは跳ねるように駆け出すとラッシュに向かって大きく手を振った。
「こっちこっち! すぐ追いつくなんてすごいねえ」
「ったりめーだろ、おれの足の速さを舐めんなって!」
ビッケバッケの手を取り、ラッシュは笑いながらトゥルースの待つ屋根の下へ歩き出す。してやったりという笑顔といい乱れぬ呼吸といい、幾度と危機を乗り越えた彼の脚力と自信は確かなもののようだった。
「……なあ、とっととここを離れなくていいのか?」
壁にもたれかかったトゥルースを見て、ラッシュが疑問に思うのは当然だろう。 伸ばされた手を軽く握ると、トゥルースは喧騒を忘れるような笑顔を浮かべた。
「路地にいた……ユーリといいましたか。あの人がここは安全だと教えてくれたんです。ラッシュも道を教わったのでは?」
「ああ、あいつか……」
記憶力に不安のあるさすがのラッシュも、命の恩人の面影くらいは覚えていたようだ。小さく俯くと、一難が去ったことを実感するように息を吐く。
「あいつら、おれたちを捕まえずに逃がしてくれたんだよな。予想より優しくて助かったぜ」
「でも兵士から逃げてきたんだよね? 大人から見たらぼくたちが悪者なんだから、早めに帰ったほうがいいよ」
「……ああ、それなら心配いらないよ」
「お、お前ッ! さっきの兵士か!」
不安と安堵の中で揺れ動く、彼らの意見を突然一人の男が引き裂いた。瞬時にラッシュは二人の前に出ると声を張る。いつの間に追いついたのだろう、男は教会の角からゆっくり姿を現した。言葉通り表情も口調も柔らかかったが、その腰に下がった剣の鞘が今の三人に彼の立場を分からせていた。

「お前たちは先に逃げろ、おれが時間を稼ぐから――」
「だから話を聞いてくれって。俺は君たちの敵でも味方でもない、通りすがりの小間使いさ」
「では、その鞘は見せかけだとでも?」
「よく見てくれよ」
教会の傍まできても、路地は家々の屋根に隠れて昼でも薄暗い。それを分かってか、男は全身を現すとゆっくり三人に近づいた。間合いを取られたと思いきや、確かに男の右腰に下げられた鞘には収まるべき剣がなかった。
「でもここまで来たってことは兵士なんだよね? ぼくたちを捕まえなくていいの?」
「そうだ、そうやって油断させて……!」
「報告を受けて、ここに来るまではそのつもりだったよ。子供が三人、景観地区で暴れてるっていうものだから立てこもりか、最悪殺傷騒ぎだと思っててね」
そこで言葉を切って、男はゆっくり三人の顔を眺めた。ラッシュだけが未だに警戒しており、二人は緊張してはいるが逃げるつもりはなさそうだった。
「でも違った。年が近いからって引っ張り出されてきたけど、相手の勘違いだったみたいだ。だから君たちは気にせず家に帰るといいよ」
頭一つ背が違うとはいえ、確かに男は兵士にしては幼すぎる。それよりも、彼がこの件を丸く治めるために放った言葉が、ラッシュの幼い攻撃性を刺激するには十分だったようだ。
「てめえ、耳詰まってんじゃねーのか?! おれらには帰る場所なんてないし帰る必要もねーんだ! 坊ちゃんはとっととお家に帰んな!」
「ラッシュ! 言いすぎですよ……!」
言い切ったら後は背を向け男から離れるだけだ。もし殴られたとしても、それ込みでラッシュは動いていた。やっぱりこの男は胡散臭い。それでも兵士だというのなら、自分が囮になって二人を逃がせばいいと思ったのだ。だが被さるようなトゥルースの声と影が、計画の破綻をラッシュに告げていた。
「ごめんなさい! ええと、ラッシュは口が悪いだけだから捕まえないであげて欲しいな、なんて……」
あろうことか、ビッケバッケまで自分をかばいに出たらしい。こうなれば二人を力ずくで引っ張って帰路に着くしかない。売った喧嘩には完敗しているが、とにかく揃って無事でいられさえすればいい。
だが一刻も早く場を離れるべく焦るラッシュに向けて、男はにこりと微笑むととんでもないことを口にしたのだ。
「君たち、騎士になれるとしたらどうする?」
「……あぁ? 何を言って」
「言い方を変えよう。町を見回り、悪人を捕まえる代わりに毎日お腹いっぱいのご飯と屋根つきのベッドで眠れるんだ。どうかな?」
「……………………」
とにかく何でも野次を飛ばすつもりだったラッシュともども、三人は言葉を失って男の顔を見ていた。その沈黙を破ったのは、誰の言葉でもなく一つの腹の音だった。
「ねえ、お腹いっぱいって硬い黒パンばっかりじゃないよね?」
「もちろん。食べるものは毎日コックさんが考えて作ってくれるよ」
「やったあ! ねえラッ、痛い!」
「なーにがやっただ。そうやって人が欲しがるものをちらつかせて気を引こうっていうのが汚いんだよ! おれたちは犬じゃねーんだぞ!」
「…………」
ついつい手放しで喜ぶビッケバッケを殴ってしまったものだから、上手いこと場を去ろうとしても彼は始終涙目で訴えてくるに違いない。それこそ叱られた犬のような彼を哀れむような視線を送りつつ、男は小さくため息をついたのだった。
「……はあ、ダメか。俺は本気だったけどな。ま、また会ったらよろしくな、ラッシュ」
「んなッ――?!」
友人の名でも呼ぶような気軽さでラッシュに呼びかけ、男はひらひらと手を振りながら道を引き返す。突然のことに反応できずにラッシュは男を引き止める機会を失ってしまった。

「……ラッシュ、ラッシュ大丈夫ですか?」
「あ、ああ……とにかくおれたちは安全なんだよ、な?」
どれだけ経ったのか、トゥルースに肩を揺さぶられてラッシュは我に返った。男の姿はすでになく、ラッシュは白昼夢でもみたかのようにトゥルースに問いかけた。
「ええ、大丈夫ですよ。しかしあの男、何者なんでしょうか……。私たちのような人間を簡単に引き入れられるようには見えないのですが」
トゥルースが首を捻る。そんな彼の考えを補強するように、おずおずと顔を見せたビッケバッケは口にした。
「トゥルース、見てないの? あの人、左の腰にも鞘があったよ。このくらいの、長さだったけど」
言いながらビッケバッケは手を広げてみせる。彼らの腕より短いそれは、一般的に店先で並んでいるものとは違うのだろう。
「そんな奴、見たことも聞いたこともねえな。どういうつもりなんだか……」
唸るようなラッシュの呟きにトゥルースも頷く。ますます正体不明な男の存在を意識しなければならないのは想定外だったが、心配ばかりしても腹は膨れない。ラッシュは切り替えるように顔を上げると二人に笑いかけた。
「そんじゃ帰るか。後なビッケバッケ、次飯の話をされても釣られんな。おれはお前のことが一番心配なんだからな」
「えへへ、ありがとう。じゃあ、どれだけ食べ物が見つけられるか競争だね。よーい、どん!」
「なーにが競争だっての。行くぞトゥルース」
「はい」
先導を切り、ビッケバッケは走り出す。彼らの食事は均等を意識しているとはいえ、見つけたものに多く分配されるのは彼らの持つ無意識の優しさなのだろう。とにかく寝床に戻るべく、呼びかけたラッシュにトゥルースは笑顔で返す。
太陽は大きな街灯となり彼らを照らし、かすかに吹く風に混ざって鐘楼の鐘が背中を追うように響いたのだった。

「……逃げる?」
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兵隊ごっこナイトトリオその4にして完結編。その3はここ

書いてた本人すら忘れかけてたものです。一週間くらいかけてちまちま進めていたので元の一時間縛りって何それ状態です。
「ビュウがどうやってナイトトリオを引き入れたのか」を書きたかったんだと思います(曖昧)。正解がない以上、色んな可能性を考えられるのが素晴らしいと思います。もっと読ませて。
20190624



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