Novel / 春風とともに


春は出会いと別れの季節であり、新たな旅立ちの季節でもある。そしてここに一組の恋人が、夫婦として新たな一歩を踏み出したのだった。

***

「――で、エカテリーナは最近どうなの?」
「えっ?」
動揺は指先を伝わりグラスを揺らす。中で行っては返るビロードの波をなだめるように、二人はそれを見守った。
「もう、焦らせないでよ。今日はアナスタシアを祝う日って決めてたから、あなたがいい気分で過ごしてくれたらそれでいいって思ってたのに……」
「そんなわけにはいかないわ」
柔らかく、それでいてはっきりと当のアナスタシアは言い切ると首を小さく横に振ったのだった。
春になったとはいえ、室内はまだ羽織ものがなければ薄ら寒い。だが暖められた木の香りとワインの匂いに加えて、近所で評判だというしっとりとしたチョコケーキが二人の身も心も温めていた、はずだった。
「エカテリーナの気持ちはとっても嬉しいし、あなたにしか話せないこともいっぱい話せたわ。いい、他の人に話したら絶交なんだから!」
ひょい、ぱくり。
軽快に運び出されたケーキを口にするアナスタシアに、エカテリーナは小さく頷いてワイングラスに口をつける。カーナの肥沃な大地で育った甘みのある赤ワインは、この日の為に並んででも手に入れておきたかった逸品だ。しかし、彼女はワインの良し悪しを分かるほど詳しくはなかったし、むしろ興味がなかったといってもいいくらいだ。
「私の次は、あなたの話よ。どうなの、ホーネットとは。あれから進んでる?」
「あの、ええと……」
未だに名前を呼ばれるだけで胸が高鳴り、エカテリーナは左手で軽く胸を押さえるとアナスタシアの押し迫るような視線をついと避けた。グラスを置いて席を立とうとした彼女に、アナスタシアのため息が纏わりつく。
「そうなんだけど、そうじゃなくて――」
「もう、はっきりしなさいよね」
「だから、見てもらいたいものがあるの。待っててね」
遠慮がちで遠回りな話し方に切り込むような返事ができるのはアナスタシアだけだ。変わらぬやりとりに微笑むエカテリーナの束縛を、再びアナスタシアのため息が解きほぐす。だが親友の暖かな後押しを受けて、彼女は私室のベッドサイドに置かれたチェストの引き出しを開けたのだった。

「お待たせ。選ぼうかと思ったけど、全部持ってきちゃった。あんまり細かく読まないでね……」
「手紙かあ。なになに、ずっと文通してるんだ?」
ややあって姿を現したエカテリーナの胸には、鍵のついた箱が抱えられていた。箱自体は質素なものだったが、かちりと開いた箱の中身は彼女にとって大切な宝物のようだった。アナスタシアは一番上の封筒を手に取ると、おもむろに中身を取り出した。
「月に一度、返事がくればいいほうなんだ。あの方、ずっと空の上でなかなかお手紙が届かないみたいなの」
「でも律儀に返事はくれるのね。いい人じゃない」
「そう、アナスタシアもそう思う?」
物に白黒付けたがるアナスタシアのことだ。より距離の広がった遠距離恋愛をてっきり否定されると思っていたエカテリーナは、思わぬ同意に声を上ずらせると彼女の腕を縋るように掴んだ。
「送る場所はバラバラなんだ。今も船の上なの?」
しかしアナスタシアの興味は依然手紙にあるようだった。最初の手紙を一旦机に置くと、箱に収まった封筒の消印をぱらぱらと確かめる。カーナのものが多いが、時にはダフィラやベロスのものまである。
「頼まれてファーレンハイトの操舵手を続けてるんだって。今は元の貨物船として飛んでるみたい。あの方曰く、カーナの食糧事情を空から支えてるんだ、ってたびたび書いてるの。ふふ、お茶目だと思わない?」
「へえ、意外。でもそう言われたら、少しは感謝しなきゃだね」
降り注ぐエカテリーナの笑顔に、アナスタシアも笑顔で応えた。本来なら退屈な空の上で唯一の楽しみといえるのが食事なのだが、あの男ほど変わった人なら船に乗っていること自体が人生の楽しみでも何らおかしくはない。
「――あれ、でも中身は普通なんだ」
「アナスタシアは何だと思ってたの?」
暖かな視線は、急に冷気を帯びて手元に突き刺さる。まあまあと宥めるように苦笑して、アナスタシアは再び手に取った手紙に目を落とした。その中身はとても恋愛に燃えている二人のやりとりではなく、現地の天気だの、人間関係だの、ウワサといった他愛もないものばかりだったのだ。
「エカテリーナも、同じようなことを返してるの?」
「私のことはいいの。……でもそうね、私はあの方みたいに色んな場所を見聞きはできないから、せめて近所にできた美味しいお店とか、流行のお菓子を綴って送ってるの。あの方が誇りを持っているお仕事が、これだけ笑顔を届けていることを知ってほしくて……」
「そっか。普段から意識してなかったな、そういえば」
「だから、ずっと離れていても寂しくないの。声を聞きたいなって、思うときはあるけどね」
アナスタシアから受け取った手紙を胸に抱いて、エカテリーナは照れくさそうに笑う。その純粋で真っ直ぐな思いに少し心を打たれつつ、アナスタシアはもうひとつの封筒を手に取った。少なくとも、次の手紙からも彼女の思いがあまり届いているようには思える文面ではなかった。元々エカテリーナから始まった片思いとはいえ、何とか彼女の思いを昇華してやらねばならないという親友としての心苦しさを感じ始めていた。

「ほら、これ見て!」
「どうしたの急に?」
腕を揺すられて、アナスタシアの意識は急に紙上に戻された。弾むようなエカテリーナの声に多少困惑しつつもわざわざ紙上に置かれた指を退かすと、アナスタシアはそこをゆっくり声に上げて読み始めた。
「――そちらではワインの初物が出回る時期です。特に中央盆地から産出される、通称輝くルビーと称されるワインは渋みが少なく豊かな甘みが舌に春を届けます。祝い事や旅立つ人への贈り物には最適かと。少しでも貴方の生活が豊かになるように――」
「…………続きは?」

「それどころじゃないわよ、あなたって人はもう!」
「わ! わ、えっ、なにか……?」
覗き込もうとしたエカテリーナを弾き飛ばすように立ち上がり、アナスタシアは声を大にする。あまりに突然のことに一歩引いてうろたえる彼女の手を取ると、アナスタシアは大きく頷いた。
「ここに書かれているワインが、今日飲んでいるもので間違いないわよね? それにこっちにも……。やっぱり」
確かめるようにエカテリーナの手に握られていた手紙を確認すると、それにもワインの記述があった。念のためにと手紙をいくつか遡ってみても、変わらず各地のワインが彼の目を通して書かれていた。
――どうしてもっと早く気づかなかったのだろう。ホーネットが好きなものはワインだ。そして目の前のエカテリーナが、誘うたびにグルメに詳しくなっていた理由もここに繋がる。
「エカテリーナ、次ホーネットがカーナに戻ってくるのはいつ?」
「キャンベルからマハールを経由するみたいだから、早くて二週間後かしら」
「それなら十分よ。ねえエカテリーナ、ホーネットに贈り物をしてみたらどうかな、あの日みたいに!」
手を打ったかと思えば、アナスタシアは唐突な提案をしてみせた。あの日といわれたエカテリーナの脳裏に、ビュウの手助けを元にあまいワインを贈る情景が浮かんでは消える。
「でも、あの日だって直接渡せてないもの。あの方もきっと、私が突然押しかけたら驚くどころか拒絶するかもしれないし……」
「嫌いならそもそも文通なんてしない! 好みのワインだって勧めたりしない! そもそもあの人だっていい大人なんだから、ワインの贈り主が分からないほど鈍いはずなんてないわ」
ずずいと歩み寄るアナスタシアに圧されて、エカテリーナはまだ戸惑いながら俯いている。
「私が美味しいものやワインに詳しくなれたのはあの方のおかげ。でも近づくために好きになったって思われたくないし披露できる自信もないわ」
「でも変われたじゃない!」
高らかに声をあげたアナスタシアの言葉ひとつひとつがエカテリーナに降り注ぐ。怯えるように顔を上げる彼女に対して、アナスタシアは満面の笑みを浮かべたのだった。
「これだけ長い期間好きでいるなんて初めてのことでしょ? だから私にも手伝わせて欲しいの。いいエカテリーナ、これは運命よ。だから当たって砕けろの精神でいけばきっと上手くいくわ!」
「当たって、砕ける……」
「さーて、後は二週間後までに準備しなくちゃね!」
「……え?」
エカテリーナの脳内で反響していたある種不穏な言葉は、アナスタシアによって打ち消された。ぽけっとした顔を見て、彼女はエカテリーナの両手を握ると新たな鐘を打ち鳴らす。
「ほらほら、時間は待ってくれないわよ!」
「ねえ、いきなりどうしたのアナスタシア!」
手紙を押し付けたかと思うと、アナスタシアは家を飛び出していく。忙しない来訪者と新たな春の予感に、エカテリーナはそっと微笑んだのだった。

春風とともに
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会員制サークル・「Blown Fluffy」に久方ぶりに投稿したものです。
おめでたい話が耳に入った+春ということで、前向きなエカテリーナ→ホーネットを応援するアナスタシアにしてみました。めでたいめでたい。
エカテリーナの盲目さは、上手いことレールに乗ったら後は一直線にゴールインまでいけそうだと思うんですが私だけでしょうか……?
20190222付



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