「…………アナ、……ディアナ!」
「えっ? あれごめん、ぼーっとしてたわ」
頬杖を外し、窓の向こうに広がる庭に一瞬目を向けた後で、ディアナは声の主であるゾラに向けてはにかんで見せたのだった。
ビュウたちが逃げたドラゴンたちを探しに行くといってこのテードを離れて約三ヶ月。
初めは残された反乱軍としての緊張感や高揚感が、彼らを無性に駆り立てた。
だが実際何ができるわけでもなかった。彼らは日々生きるために田畑を耕し住居の清掃をし、そして日常の一部として取り入れられた訓練が唯一自分たちが兵士なのだと思い出させてくれた。
毎日がそんな調子なら、爽やかな初夏の陽気に気を許したとしても誰も責めることはできないだろう。
現にビュウ不在の今、リーダーを名乗っているマテライトですら、畑仕事で疲れた体を休めるといってリビングのソファで横になったきりなのだ。
「調子はどうだい?」
「うん、へーき。気持ちよくてぼーっとしてたみたい」
「そうかい」
窓に背を向けたディアナに対して、ゾラはそれだけ言うと片付け途中の皿を棚にしまう作業に戻った。何気ない一言の中に変わらぬ心配を読み取ったディアナは、そっと窓を離れてゾラを手伝うべくキッチンへ向かった。
「ねえ、手伝おっか?」
10人以上が一同に座ることのできるテーブルの反対側から身を乗り出して、ディアナは名乗りをあげる。無心で片付けていたのか、一瞬だけゾラは驚いた顔をしたがすぐににこりと笑ってみせた。
「ああ、それならディアナにも手伝ってもらおうかね」
「なになに?」
言われてディアナは初めて、リビングの異変に気づいた。自分とゾラ、そして寝息を立てているマテライト以外、人の気配が全くないのだ。
確かにこの時間なら、外回りの仕事をこなす仲間もいるだろう。だが普段なら他の仲間は食後のお茶をたしなみつつ、他愛もないおしゃべりに興じているはずだった。
「みんなは?」
「上だよ。ほら、毎日こう暖かいと衣替えをしたほうがいいんじゃないかって話が出てね。ディアナもいっておいで」
「そういえばここに来てから初めての衣替えだよね。これともお別れかあ」
そう口にして、ディアナは厚手のローブの袖を握った。底冷えするようなテードの冬を共に乗り切ってくれた相棒だったが、ここ最近外に出るときはコート掛けに留守をしていることが多くなっていた。
「無理に替えなくても大丈夫だからね」
「分かってるって。それじゃ私も上にいくね」
仲間である以上に親のように親身にしてくれたゾラも、ここ最近のディアナの動向には目が向いていないようだ。そのぶん元気になった証拠だと思えて、ディアナの足取りは軽やかに階段へ向いたのだった。
***
二階に上がると、確かに廊下にはごそごそと物を動かす音と共に、相談でもしているのか賑やかな声が満ちていた。穏やかな春の一幕にディアナは微笑むと、自分の部屋へ入り窓を開け放つ。そしてタンスを開けようとして、その脇に積み上げられた木箱に視線が移ったのだった。
「これって……」
次を言おうとして、ディアナの喉は堰き止められたかのように動かなかった。
変わりにごくり、と唾を飲む。頭で渦巻く恐れを必死に押さえて、口を震わせ声を絞り出した。
「カーナから引き上げてきた、荷物…………。そっか。ずっとしまいこんでたんだ」
自らの記憶と共にしまわれ隠されてきた木箱は、自分がそうしたくてしたわけではない。
だがテード到着直後のディアナの体調を見れば、触れないようにするのが仲間たちの優しさなのだろう。
だが、こうしてディアナの目に留まったことで、自分の過去と向き合う機会がやってきたことになる。
「開けるしか、ないよね。ずっと見ない振りなんて、私にはできないもの」
自身に言い聞かせるように呟き頷くと、ディアナは木箱に手をかけたのだった。
「ふう……。こんなに重かったんだ」
裾で汗を拭きながら、ディアナは小さく息をついた。
木箱自体の重さもあるが、中身が相当詰まっているのか下ろすのに助けを呼ぶか躊躇したくらいだ。蓋を開けると同時に漂うかび臭さに一瞬顔をしかめたが、すぐそれは笑顔に変わる。
「しまい込んでごめんね。そのぶんきちんと日干ししなきゃ!」
彼女の目に飛び込んできたのは、「3-2 交換日記」と丸みのある癖字で書かれたノートの表紙だった。
それを取り出しふー、と息を吹きかける。被っていた細やかな埃が宙に舞い、春の光を受けて一瞬光ったがすぐ風に流れて見えなくなってしまった。
それでも落ちない煤けた表紙を軽く手で払うと、ディアナは諦めたような息を吐いた。
「みんな今ごろどうしてるかな」
今は遠く離れた同僚たちに想いを馳せながら、ディアナの指はノートをめくり始めた。
そう、これはかつてカーナで同じプリースト見習いとして訓練を共にした、少女たちの記録なのだった。
「ふふ、しょっちゅう夜更かしして怒られてたよね、わたしたち」
慣れない魔法に頭を悩ませたこと、気になる異性の気の引き方、講義の退屈な時間を紛らわせる方法、などなど。
ページをめくれば脳裏に蘇る思い出の数々を、ディアナはくすくすと笑い声を立てながら読み進める。その表情から、救出当時の焦りと不安の張り付いた彼女はとても想像できないだろう。
「はあ。会いたくなっちゃった。今度相談してみようかなあ」
ノートをぱたんと閉じて嘆息する。相談する相手は商人か、それとも仲間か。情報収集を兼ねた潜入とはいえ、テードとは比べ物にならない魅力の詰まった土地を巡る争いに勝てる見込みは彼女にはなかった。
「会えるのはきっとカーナを取り戻してからだよね。それまでに私、みんながびっくりするようなプリーストになれるかな……?」
先輩を、教師を、そして司教の姿を思い出し、その肩にかかる負担を想像してディアナはため息をついた。しかし気落ちしていても仕方がないと顔をあげ、ノートを含む本を取り出しにかかる。
「でも今は、出来ることをやらなくちゃね!」
この気持ちの切り替わりの早さが、自分のなによりの利点だと思っている。だからこそ立ち止まってなどいられないのだ。
壁にかけられた時計の針の音に促されるように、ディアナは黙々と手を動かしたのだった。
「……あれ? これって確か」
言いながら、ディアナは本を箱から取り出しては積み上げ、その一番下に敷かれるように置かれた赤いボロ布に手を伸ばした。
赤といってもこの明るさでなんとかわかる色合いで、焦げとススで汚れたそれは触れたものをますます汚してしまいそうだった。
だからこそ、クッションのようになっていたのだろう。
「どうしたんだろ、こんなところに入れて。私が怖がらないようにしてくれたのかな?」
ふふ、と笑みをこぼす余裕があることが、今のディアナには嬉しい。その一方で、誰かのものを犠牲にしている事実に、彼女はちくりと胸の痛みを感じていた。
立場上何かと不便をしている自分たちは衣類もあまり口を出せる状況になく、衣替えという名の休憩時間であることはディアナ自身もよく知っていた。
だからこそ、この布一枚の価値を彼女はよく知っているのだ。
「端切れにすれば、なんとか使えないかな……?」
布の汚れが付くのも構わず予想より分量のある布を抱えるように取り出すと、立ち上がり窓際に立った。
「まずはこれがどれくらいあるか広げて――」
およその端を摘んで、布を窓の外に流す。風に吹かれてはためく煤けた赤に、ディアナは思わずその手を離しそうになった。片手で何とか布を掴み、もう片方は声を抑えることに必死だった。
「これって――――!!」
記憶の扉が開かれる。眼前に翻るそれは唯一、自分の命を救った赤だったのだ。それがどうして手元にあるのか。理由は考えずとも理解できた。
この箱に入っていた本は、命に代えても守りたかったディアナの思い出や記憶だ。それを守るように、このマントが敷かれているなんて。
カーナのナイトとしての強い意志の形に、ディアナはそれを手繰り寄せる抱きしめると、今はどこの空を旅しているのか分からない彼を思った。
「……お礼を言いたくても言えないなんて。ずるいなあ、ラッシュったら」
そして彼女の思いを一粒滴らせると、ディアナはマントを再び風になびかせる。青い空に元気よく舞うそれを手放さないように両手でしっかり握ると、彼女は宣言するように口を開いたのだった。
「その背中に似合うようにきちんと繕ってあげるわ。だからちゃんと、帰ってくるのよ!」
空に溶けるディアナの声と時を刻む針の音とが、彼女の前に進もうとする背中を押してくれている。
そんな気がして、ディアナはマントを腕の中にしまいこむと、階段を駆け足で下りたのだった。
元はワンライのお題でした。 赤にまつわる話/マーブリング/進み始めた秒針
ラッシュとディアナでほぼディアナの独り言な小話。前回はここらへんです。
やっぱりディアナは前向きな笑顔が何より似合うと思います。その笑顔がラッシュに向けられてもへらへら笑うかどぎまぎするか疑ってかかるかのどれかだと思うんですけどね。その距離でいてくれ。
続くかどうかは本当に私の気まぐれですが、良ければ感想ください。同士がどれくらいいるのかが単純に気になるんです――!
2017/12/22