「ああ、雨だ……」
当たり前の、それでも受け入れたくない気持ちを洗い流すような雨を前に、彼はただ厚く空を覆う雨雲を見上げていたのだった。
カーナの梅雨は長い。
そのお陰で平地の多いこの国は農業大国として名を馳せ、国民は豊かな食卓にありつくことができるのだ。
しかしそんな恵みの雨も、彼にとっては仕事の邪魔でしかなかった。
グラハムは三十は半ばを過ぎた木彫り職人だ。師匠の下を離れて十年以上経つ。
中肉中背、これといって特徴のない彼が唯一自慢できるのは手先の器用さだ。
だがその器用さも女性関係では上手く発揮されず、彼は結局この年まで独り身で日々人々の使う食器などを作り上げては店に卸して生計を立てている。
だからこそ、長雨が続くと彼は一旦仕事をたたみにかかる。季節を恨んでも仕方がないので、梅雨の時期は大きな町に出て生きるのに必要な銭を稼ぐのだ。
彼の財布は別段寂しいものではなく、むしろ一人で暮らすには十分すぎるほどだった。おかげで普段は町外れに構えたアトリエ兼住宅で能力を十分に発揮できていた。
そんな余裕のある彼が、わざわざ家を出てまで小銭を稼がなければならない理由。
その姿を思い浮かべながら、グラハムは小走りで道を走っていく人々の姿を目で追った。
「来てくれなければ困るとはいえ、まだ時間があるからな……」
誰ともなしにつぶやいて、グラハムは店の傍らに止めた雨に濡れる荷車に目を移した。これは彼の持ち物で、出来上がった食器などを積んで運ぶための大事な商売道具だ。
しかし本来なら運ぶための馬もロバも繋がれてはおらず、空のまま地面に投げ出された御車台が寂しそうに雨に打たれているだけだった。
「……待つしかないな」
馬が逃げていたなら慌てるところだが、グラハムはすっかり落ち着いた様子でぎりぎり雨が凌げる軒の下に座り込んだ。
まるで、始めから迎えが来ることがわかっているかのように。
どっ、どっ、どっ
すっかり人影のなくなった石畳の上を、雨音の軽やかさとは反対の重い振動が響く。それを感じ取れるのは、長らく一緒にいるグラハムくらいだろう。
「ん、来たか」
うとうと船を漕いでいた彼がぼんやりとした頭をあげ、変わらぬ灰色の空を見て気だるげに伸びをした後でゆっくりと立ち上がる。
その目に、先ほどのような憂鬱さは感じられなかった。少年のように両の瞳は光を取り戻し、これから現れるものを待ち望んでいるようにしきりに音のするほうへ首を伸ばす。
「グルルル……」
やがて獣の声とおぼしき唸り声。そしてその声の主は灰色の町に降る雨の中から、確かに姿を現したのだった。
「おう来たかティス。きっちり時間通りだな」
「ぐるるう」
「おっと、それ以上こっちに来るなよ。軒を壊したら飯抜きだ」
「……ぐるる」
同じ声の持ち主とは思えないほどグラハムを見て甘えた声を出した生き物は、手のひらを突き出されて大人しくその場で踏みとどまるとぶるる、と頭を振った。短く密集した毛に溜まった雨がひとつの塊となり、生き物の思いを伝えるかのようにグラハムに降りかかった。
「こら、何のためにお前俺がここで雨宿りしてたと思ってんだ」
「ぐふー」
それを避けつつ軽くにらみを聞かせるグラハムをからかうように、生き物は黄色い目を細めて小さく息をはく。そんな姿にほっとした彼は、ティスと呼んだ目の前の生き物の懐に躊躇なく入っていった。
「これ以上お前が濡れても心配だ、とっとと帰るぞ」
返事はない。代わりに見上げるグラハムの目と見下ろすティスの目が合った。
これで十分とばかりに、一人と一頭はぴたりと寄り添いながら石畳を歩き始める。荷馬車は晴れたらまた取りにくればいい。この重さのものを誰の目に留まることなく運ぶのはかなり難しいだろう。
「ティス、今年ももうすぐしたら大移動だぞ。今年はどこに行こうか。まあ、ドラゴンをついでに泊めてくれる場所なんてたかだか知れてるけどな」
ティスの翼を傘代わりにしながら、グラハムは優しく、それでいて楽しそうにティスに語り掛ける。その言葉を聞くつもりがあるのか、ティスの二本の短いねじれた角を持った頭は自然と下がっていたのだった。
彼らは互いが互いの気持ちが十分に通じているとは思っていない。あくまでも仕事のパートナーであり、利害が一致しているからこそ互いのために行動するのだ。
それでもティスと共に歩むグラハムの足取りは軽く、グラハムの隣を歩むティスの長い尻尾は楽しげに揺れるのだった。
関東の梅雨が明けたと聞いてとりあえず書いておきたかったものを書いた。
2時間一発。地の文多すぎ。
ビュウたちとは直接関わりがない一般市民とドラゴンの絡みってこんなもん?
170719
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懐かしいものを引っ張ってきた。これがある意味同人誌として書いている「ちいさな~」の原型とは
誰も思うまい。私も思ってなかった。書きたいなという意欲はこの頃からあったんですけどね。
どういうことかはブログに書きました。→カーナと人とドラゴンと