そいつは、明らかに「普通」ではなかった。
いや、そうやって指をさせば回りからも自分たちは指をさされる。それは分かっていた。
だから差別だの区別だの大人の都合で作られた言葉も世界も、オレは大嫌いだ。
だけどそいつは、わけ隔てなく喋り、接し、手を引いてくれる。
いつからだろう、そいつのことを慕うようになっていたのは。
1.始まりは突然に
「おい!」
「……な、なんだよ」
「それはそっちの話だ。どうした、立ち止まって」
突然掛けられた声に、オレの意識は引き戻された。追いつこうと足を運びながら、これ以上理由のつけられない言い訳を告げる。
「わりい、考えごとしてた」
「ぼーっとすんのは後にしてくれ。時間は待ってくれないからな」
「なに人ごとみたいに言ってんだよ、遅れてきたのはお前のほうだろ!」
かつん、とつま先で蹴り上げた小石が古い石畳で跳ねる。それに目をやってから、悠々と約束の時間に遅れてやってきた男はへらへら笑いながらこう口にしたのだった。
「そうだったな、悪い悪い」
オレたちはカーナ城下の中でも古い区画の裏道を歩いていた。風雨に晒され褪せたレンガ造りの家々は、それでもしっかりと住人を守り続けている。荒れて放置された庭と柵続きの石畳はやはり古く、ところどころ浮いたり凹んだりして歩きにくいことこの上ない。
けれど今のオレにとって、人の目につきにくい場所は命を守り繋ぐことに直結している。人の出入りがないことを確認して、納屋で寝起きし雨風を防ぐ。そして運悪く見つかれば、また次の寝床を探す。そんな野良犬みたいな生活を、オレは結構気に入っていた。
今の季節は暖かくて過ごしやすい。雨も少ないので、食料が腐ったりカビたりすることを心配せず蓄えることができる。そんなわけで、近くの大通りに並ぶ屋台の端から主の目を誤魔化すことを繰り返していたある日、ひょっこり現れたこいつは隠れていたはずのオレを指差しこう言ったのだ。
「そんなわけで物はこっちで運ぶから、ちょうどいいや、そこで隠れたつもりになってる子に腹いっぱい食べさせてやってくれないか」
「あ?!」
「え? どこに……」
ピンで留められた虫のように、オレはその場から動けなかった。言っちゃ悪いが、ここらの商人はお人よしだった。だから見つかった程度で尻を叩くような奴はいないし、情に訴えればおこぼれを頂戴することだってできるのだ。
だが今だけは事情が違う。男がオレを指差したことで「こいつは泥棒ですよ」と明かされたようなものだった。早く逃げなければという焦りと、数日を牢屋で過ごすが腹いっぱい食べられるかもという欲求が頭の中で渦を巻く。
「ほらその、樽の裏だ。ああ、心配はしなくていいよ、突き出したりしないから」
「……へ?」
膨らみ続けた悩みは、男の一言でパンと音を立てて破裂した。しぼんでいく悩みの代わりに頭を埋め尽くす食欲に耐えられず、オレは思わず立ち上がった。
「おお、そんなところに」
「へ、へへ……」
欲求が意思を持ち、樽の陰から全身を露にする。純粋に驚く店主に照れ隠しで笑いかけてなお、残っていた理性が顔を伏せさせた。
「……いいのかい、悪いがどう見たって」
「一人より二人のほうが楽だし、それにこんな紙の山を食べたら医者のほうが高くつく」
「あはは、確かにそうかもしれないなあ」
作り笑いともいえない声をあげる店主は隙だらけだろう。そっと伺うように見上げると、まだ店主は男と他愛もない話を続けていた。その手は確かに封筒を持っている。屋台を挟んで向かいの男は、どうりで高い声だと思っていたが見れば見るほど子供だった。いや、自分とさほど年齢も変わらないのではないだろうか?
そんな観察と推測をしていると、その男がこちらを向いて人の良さそうな笑顔を浮かべた。足元に置かれた木箱の中身が、男のいう届け物なのだろう。なるほど確かに一人で運ぶのは多少疲れるだろうが、とにかく小ざっぱりとした格好といい大人と対等に渡り合うこの男の全てに苛立ちを感じ始めていた。
「それで、どうする?」
「どうする、って……」
澄んだ青の目に射られて、オレはついと視線を逸らした。こんな状況で答えを選べる立場でないことを、男は分かっていて聞いているのだろうか。
そして時は無情にも彼の後押しを始めた。ぼう、と火のつく音から少し遅れて、油の香りがその場にふわりと漂い始めたのだ。時刻は昼の少し前。自分がどっちを選ぼうが店主は商売の準備をしなければならない。
目を逸らした先にある大きな木箱の中から店主が取り出したのは、片手では掴みきれないほどの肉の塊だった。鉄板の一段下は調理場なのだろう、肉切り包丁を手にした店主はそれを置いたかと思うと慣れた手つきで切り分け始める。あっという間に手のひら大に分けられた肉をさっと鉄串に通すと、熱された鉄板の上にそれを並べ始めた。
じゅうじゅう、じゅわあ。
音とともに広がる牛脂の香りに、ただでさえ抱えていた空腹が音を立てて暴れ始める。紛れて聞こえないであろうことも忘れて両手で押さえ込みながら、オレは思いのたけを口から吐き出していた。
「わ、わかった! 手伝いでもなんでもするから、その肉食わせろ!!」
***
ぐ、くう~。
「……なんだ? もう腹が減ったのか、ラッシュ」
「うっ、うるせー……おっと」
狭い路地に二人きり。そうなれば、おのずと腹の虫の主は決まる。誤魔化しにもならない文句を飛ばそうとしたオレの足を、今度は浮いた石畳が捉えにかかった。
だがそこで転ぶほど、オレの運動神経は鈍くない。むしろ人よりいいとさえ思っている。一瞬足を止め振り向いた男は、オレの軽やかな足裁きにひとつ頷くとまた歩き出した。
「いい動きだ、心配はいらないみたいだな。それよりはお腹の調子のほうが気にはなるけど」
「るせーな、こっちはロクなもん食ってねーんだよ。それにあんたとあった日のことを思い出して、その……」
「ああ、あの串焼きか。まさか行きも帰りも食べられるなんて思ってなかっただろ?」
ぐぐう~、と腹が返事をしたのを無視して、オレは素直に頷いた。あの日、頼まれものは男持参の手紙だけのはずだった。しかしちょうど運んだ串焼き屋に配達の用があったので、都合のよすぎるこの男はあっさり受けたのだ。それも自分がいたからか判断つけかねるが、そのおかげで一日二食、それも焼きたての肉を食べられたのだから文句はつけられない。
――いや、一つだけあった。
「美味かったよ、とびきりな。けどそのせいで、なかなか味が忘れられなくて大変だったんだからな?!」
「そんなに言うなら、帰りに駄賃代わりの肉でも強請っとけば良かったな」
「ゆすっ…………ってお前な」
思わず飛び出た鋭い声に驚いたのは自身だった。生きるために盗みを働くのは仕方のないことだが、堂々と物をゆする行為は確かな悪事だと線引きをしていたのだ。だが男の気にかかったのは別のことらしく、微かなため息とともに哀れむような視線を投げかけてきたのだった。
「――名前。教えただろ?」
「……へ? まあでも、そんなこと言い出すなんて意外だったぜ、ビュウ」
「別に冗談で済まさなくても良かったんだけど、……あの顔を見たらなあ」
「どんな顔だったんだよ?!」
名前を呼ばれたビュウは口元をほころばせたが、それ以上に帰りがけのラッシュの満足した顔がよっぽど印象に残ったのだろう。微笑みは笑いとなり、やがて音を伴い少しだけ路地を賑やかにしたのだった。
「いやそれはもう、うちの…………。 それより、思ってた以上に食べるのに困ってるみたいだな」
「誤魔化したって無駄だからな、言ってみろよ。何だって?」
「その――満足するまで遊んだ犬みたいだなと思って」
「犬ぅ?!」
言い逃れできないと悟ったビュウが放った一言に、ラッシュは顔の穴という穴が広がるのを感じていた。自分の暮らしが犬のようだと思っていても、まさかこんな直球で言われる心の準備まではしようがない。
「どうどう」
「気軽に触んな! オレはペットか?!」
「はは、ごめんって」
意識がすっかり逸れている間に、ビュウはラッシュの背中をあやすように叩いていた。とっさに振り払って威嚇してみたが、それすらも想定内だと言いたげにビュウは笑ったのだった。
「確かに、食うもんには毎日困ってるさ、こんな暮らしだからな。でも絶対孤児院の世話にはなんねーからな!」
「分かってる。そうじゃなければ、とっくに孤児院送りになってるだろうね」
「……ホントに何者なんだよ、お前」
再び静寂を取り戻した路地裏は、ラッシュに考える時間を与えた。笑顔でさらりと言い切るビュウの横顔を見ながら、答えの出ない問題に頭を悩ませる。
まずは見た目。整えられた特徴的な髪形といい、シンプルながら清潔感のある服装といい、まず食うに困るような家でないことは間違いない。それに言伝を受けるような立場なのだ。この町には確かに配達員というれっきとした職業があるが、明らかに年齢の足らないビュウでは就くことはできない。
そして何より、彼の腰のベルトに下げられた一振りのナイフが経歴の異様さを物語っていた。子供が振るうには大きいそれは彫刻を施された鞘に収められている。彼が抜くことは考えられなかったが、それでも子供に持たせるものとしては大げさすぎではないだろうか。
「――ラッシュ?」
「は、あっ、え?」
「やっぱり目立つかな、これ」
気づけば腰を凝視していたらしい。戸惑うラッシュに言い訳するように、ビュウは腰に下げた鞘をそっと撫でたのだった。
「……それ、使うのか?」
「まさか。護身用という名の飾りだよ。抜いたところで、きっとまともに扱えないだろうね」
思い切ったラッシュの質問に、ビュウは鞘をぽんぽんと叩くと苦笑いを浮かべる。堂々とした雰囲気の彼にも、ちゃんと苦手なことはある。その当たり前ともいえる認識が、ラッシュに再び笑顔をもたらしたのだった。
「まぎらわしいことはすんなよ、ビュウ」
「それはお互い様だろ、ともかくまた会えてよかったって思ってるよ」
「……聞いてなかったんだけどよ、また飯にありつけるんだろうな?」
聞いておいてなんだが、ラッシュの質問はここにきて始めてだった。不思議な説得力と安心感にすっかり慣れてしまったことを少しだけ後悔し始めたとき、ビュウはそれを吹き飛ばす爽やかな笑顔で頷いてみせた。
「心配しなくていいよ、もう少しいけば大通りにぶつかる。その先の荷受所から荷物を引き取るのが今回のお使いさ。でもその前に近くの市場で腹ごしらえしよう。それがお駄賃ってことで、どうかな?」
「なんだ、お前の財布から出るのかよ……」
「不満か?」
「そうじゃねえ、けど……」
ラッシュはついとビュウから視線を逸らした。同じ子供から施しを受けることには抵抗があった。しかしノーを突きつける理由も目の前の食事をやり過ごす理由も、今の彼にはない。
それを見越したのか、ビュウは左手をラッシュに差し出す。顔と手のひらを往復する視線を気にすることなく、彼は笑顔で口を開いた。
「前も今も、仕事ってことでラッシュに頼めないかな? もちろん嫌なときは引き受けなくていい。 ……あっ、でも俺のことを探るのだけはやめてくれよ」
「やっぱりビュウってうさんくさいな。ま、いいや。今日のところはよろしくな!」
そう言いきると、ラッシュは契約の証であるビュウの手をしっかり握り返して頷いた。僅かにビュウの笑顔が翳った気がするのは、彼自身もまた、契約が子供だましであることを理解しているからなのかもしれない。とにかく身寄りのないラッシュにとって、そんなことはどうでもよかったのだが。
「さ、大通りだ。少し走るよ、離れないで!」
「任せろ、オレの足の速さを見せてやる!」
二人の目の前に広がる人の波。太陽は中天に昇り、暗がりに慣れていた目が少しだけ眩む。けれど掛け声と共に手を繋いだまま走り出したビュウに連れ出されるようにして、ラッシュもまた堂々と陽の下に身を躍らせたのだった。
1/2/3/4/あとがき