「み、水……」
縋るように伸ばした手は、ただ空しく砂を握っただけだった。
砂のラグーン、ダフィラ。その首都からやや離れた交易のために発達した町で、その男は生まれ育った。
裕福な両親の元に生まれた男には、大商人として成功するために彼らが引いてくれた轍を歩いていくだけの、約束された将来があった。
物に困ったこともなく、むしろ貧乏人たちの困った顔を見ていることが、彼にとっての密かな楽しみだった。
機械技術の発達したベロスには、人の姿や風景を切り取ったように写しだせる機械があるのだという。
それを耳にしたときは喉から手がでるほど欲しかったが、扱いの難しいものらしくダフィラの気候には合わないと聞いたときの落胆ぶりは、周囲の商売仲間に話のネタにされるほどだったらしい。
そんな彼が、今は輝く金貨も輝かしい人脈も役に立たない砂漠に放りだされていた。
「くそ……。私はいつまでここにいればいいのだ」
言葉と一緒に口の中の砂を吐き出して、彼は忌々しく傍らの鞄を見下ろした。
その中に入っているのはすっかり空になった皮ぶくろと、目にも美しい大粒の宝石たちだった。
これのせいで彼は、自分から快適な豪邸を抜け出さざるを得なくなったといっても過言ではなかった。
ことは数日前。
商人として町では有名な彼が、同時に行っていた「仕事」はあまり表だって言えないことだった。
つまりは、人身売買。
仕事の斡旋という名目こそ間違ってはいなかったが、金を払えない貧民の仕事の斡旋を行う代わりに、質として安定した価値のある宝石を預かる。斡旋が終わったら、手数料と引き換えに宝石を引き渡すのだ。
全うに見えるが、その「斡旋」の内容が男も口外したくない内容のものばかりであり、実質男は斡旋元への僅かな謝礼を除いたほとんどを自分の懐に入れていたわけだった。
商人として成功を収め、裏家業でたっぷり資金を溜め込んだ男には、店を首都に開くという夢があった。
その夢も手に届くであろう、そんな順風満帆な彼の耳に、思わず疑うような噂が飛び込んできた。
「金を溜め込んだ商人の元にだけやってくる、暗殺者がいるらしい――。」
初めは貧民の作り話だろうと鼻で笑い飛ばした。わざと仲間にも話して共に笑ったくらいだ。
だが、その仲間のうちの一人が実際に無残な姿で発見されたとき、男は考えを改めなければならなかった。
情報網を使い、必至に暗殺者の正体を追った。残された痕跡がないかと目を光らせた。
それでも何も残っていなかった。せいぜい被害者に残された傷跡が、鋭いナイフによるものだと分かったくらいだ。
それも、ほぼ一撃。周囲に舐めるようにつけられた傷跡は、後で見たものによりえぐい印象を残すためだけの暗殺者の手慰みなのだろう。
「なんて非人道的なことをする」
わずかにこみ上げる吐き気を抑えつつ、男がその場で溢した思いはそれだった。
だが死体に釘付けになるがあまりに、共にいた仲間たちの冷ややかな目には気づかなかったらしい。いや、いっそその方が男にとっては幸せなのだ。
だが、今なら後悔も懺悔も神が聞き入れてくれるかもしれない。
――男が信じているのは自らの手腕と金の力だけだったが。
それでも彼は、皮袋を両手で握りしめると捧げるように空へ掲げたのだった。
「誰でもいい。俺に水を恵んでくれるなら、ここの宝石を好きなだけくれてやる!!」
「……ねえ、今の聞いた?!」
「誰だ!!」
人の声を幻で聞くほど、弱ってはいないはずだ。確かに聞こえた若い男の声に、男は身を起こすと声を張り上げた。強い風に太陽の熱を逃すためのマントが捲り上げられ旗のようになびく。そのおかげかは分からないが、彼の視界にぼんやりと人の形が浮かび上がった。
「あーっ! こんなところにいたんだね。やったねサ……痛い!」
助けてくれ、と声をあげるより早く、現れた男はひとりでひとしきり喋った。その姿は全身の形が分かるほどぴったりとした衣服で覆われており、その色も砂によく馴染んでいる。外に出ている部分は目程度で、おかげで彼が喋らなければ見落としていたかもしれない。
どうやら黄土色の男のほかに、もう一人いるらしい。だがそれより男にとって重要なのは、彼が水で満たされた皮袋をしっかり握っていることだった。
「おい、君! そ、それは、水だね?」
「そうなんだー。しかもこれが最後の一袋! おじさん、これ欲しいの?」
砂漠のオアシスとはまさに彼のような存在のことをいうのだろう。今だけは美人がいいなどとは言っていられない。弾むような彼の声に釣られて、男は隠れ場所に使っていた低い岩壁を跨ぐと一歩、また一歩と砂を踏みしめる。
「そうとも。その水こそ俺の希望。その一杯のためならこの宝石なぞ――」
そこらに転がる、石ころと変わらんよ。
「――――…………?」
一瞬目の前が真っ赤に染まったが、次に彼が見たのは、雲ひとつないダフィラの青い空だった。
そしてそれこそが、男の見た最後の光景になったのだった。
「んもー、サジンったらいいとこもってっちゃうんだからー」
「決めた役割だろう、不満は始めに言ってくれ」
「だってナイフ投げ苦手なんだもん。知ってるくせにずるいよ」
やっと身を隠せるほどの岩陰から出てきた男に一通り文句を言ってから、黄土色の姿の男、ゼロシンは改めて仕事の鮮やかさに目を見張った。
黒衣に身を包んだ男、サジンの投げたナイフは男の額に綺麗に突き刺さっていた。頭を持ち上げても血が出ていない辺り、少しだけ刃が足らなかったのかもしれない。それでも空を睨むように剥かれた瞼を閉じてやると、ゼロシンの興味はすぐに彼の持っていた鞄に移ったのだった。
「ねえ、これだよね? 今回の報酬!」
「期待よりは入ってるようだな。これで当分食い繋げるか……」
軽く持ち上げても、手ごたえはずっしりしている。鞄自体がしっかりしているせいもあるが、この量を持ってしても男の豪邸には驚くような蓄えがあるのだろう。
なにやら指折り換算しているサジンに鞄を押し付けるように渡すと、ゼロシンは懐から数枚の銀貨を取り出した。
「で、これ、依頼主に返してもいいんじゃない? ぼくたちは何も困らないし――」
「好きにしたらいい。あっちの望みはその男の死なわけで、結託してこれだけの金を用意できるなら残された豪邸も時間の問題だろうよ。それより」
「なあに?」
「とっとと帰らないと日が暮れる。さすがにお前も、こいつの二の舞にはなりたくないだろ?」
顎をくい、と男に向けて、サジンは鞄の端を持ち上げた。
「分かったよ、待って!」
促されるままゼロシンは銀貨を懐にしまいなおす。だが鞄を持ち上げようとした瞬間、思い出したように彼は男のいた周辺を漁り始めた。
「早くしろって……」
言いかけたサジンの目に飛び込んできたのは、男が使っていたであろう皮袋だった。
「これもお土産につけてあげよう!」
「土産、ねえ……」
戻ってくるなり問答無用で鞄の中に袋を詰め込むゼロシンを見下ろしながら、サジンはこれが家族を失った彼らの希望になるなら、と小さく覆面の中で笑ったのだった。
即興二次に出てきたお題に沿ってワンドロ。とっさに出てきたのが、生きることへの希望と絶望、そしてサジンとゼロシンでした。
金さえ貰えば誰でも殺す、そんな万能で物騒な二人組み。そんな二人が案外仕事に困ってそうなのが意外だったのですが、実は案外人情に弱いところがあるのではと想像しています。
おかげで恨まれようが追われようが食うに食えずで喘ごうが、結局人情で生かされる。そんな優しさがダフィラの人間にもあるのだと思いたいです。ただの希望だなこれ?
20180713