Novel / かふかふそく


カーナ王都、そのにぎやかな町の一角に二人は住んでいた。
 一階は彼女が主を勤める薬局店、二階は彼女たちの住居だ。お世辞にも広いとはいえない二人の城だったが、それでも慎ましやかに毎日楽しく暮らしていた。

 そんな平穏に過ぎていく二人の時間を乱すかのように、小さな春の嵐が吹きぬけた。

 「あの、ビュウさん」
 「どうした、あんまり美味しくなかったか?」
 そういってビュウはかじりかけのクッキーに改めて視線を落とした。
 これはお茶請けのために、近所のパン屋で見繕ってきたものだ。ビュウ自身が買ったのだから間違いない。味というものに頓着しないせいで、いつも世話になっているパン屋が試しに売り始めたというクッキーを試しに買ったのだ。もちろん味見などは一切していない。
 それでも気にする様子もなく口に運ぶフレデリカを安心してみていたビュウ。
 だがそれもついさっきまでの話だ。心配を隠すことなく顔に出すビュウに微笑みながら、当のフレデリカは小さく首を横に振った。
 「違うんです。クッキーはとても美味しいですよ、ビュウさんの選ぶものに間違いはありませんから」
 「言いすぎじゃないか?」
 「そうですか?」
 嬉しさ半分恥ずかしさ半分で笑うビュウの声にフレデリカの笑い声が重なり、部屋に優しい空気が満ちる。それに継ぎ足すように、フレデリカは口を開いた。
 「でも、あの、ビュウさん。最近あなただけじゃ何かが足りないみたいなんです」
 「はははは……えっ」
 ころころと手から机に落ちたクッキーに気づく余裕もないほどに、ビュウの視線はフレデリカに注がれていた。
 それでもおかしなことに、いくら見つめてもフレデリカは笑顔を崩そうとしなかった。それどころかビュウの反応を面白がっているらしく、笑い声を抑えようと手を添えている始末だ。
 「フレデリカ?」
 「ふふふ、ごめんなさい。つい」
 小さく肩を震わせながら笑うフレデリカを可愛いなあなどと思う一方で、ビュウは彼女に言われたことの意味を考え始めた。
 

 

 確かにファーレンハイトに乗っていた頃と比べると、今の生活はあまりにも退屈だろう。それでも戦闘を繰り返すたびに悪化していた彼女の体調のことを考えれば、今の生活こそが彼女の望んでいたものではなかったのか?
 気にかかるのは指摘が自分に向かっていることだ。立場が大きく変わったことで、以前のように動けなくなり一般人に紛れて過ごしているのは事実だった。
 彼女の言葉がビュウ自身のみを指している以上、変化を起こせるのは自分しかいない。それでいて、フレデリカの毎日が劇的に変化するような何かを起こさなければ……。
 「……ビュウさん?」
 ビュウの思考は一瞬だったが、そのあまりにも真剣に悩む様子にフレデリカは心配から声をかけずにはいられなかった。声に気づいたのか、ビュウは顔をあげひとつ頷くとにこりと微笑んだ。まるで、問題は全て解決したかのように。
 

 

 「そういうことか。フレデリカ、少し待っててくれ。すぐ戻る」
 「えっ、ちょっと」
 フレデリカが声をあげる暇すら与えず、ビュウは椅子から立ち上がるとテラスとを隔てるガラス戸へ向かった。そしてそれが当たり前だとばかりに戸を引いてベランダに降りたつ。一面に洗濯物が風に翻る中を抜け出し、彼は慣れた動作でひらりと手すりを乗り越えた。そのまま下に落下するかと思いきや、ぎし、と軋む音がして彼の両足はしっかりとベランダに立っていた。
 そこから洗濯物を腕で避けると、振り向き満面の笑みを再びフレデリカに見せた。
 「すぐ気づくとは思うけど、出られるように用意しておいてくれよ」
 「はい、いってらっしゃい!」
 ビュウが何を計画しているのかまでは分からなくとも、とにかくこれから驚くようなことが起こるらしい。声を弾ませて返事をしたフレデリカの表情に頷き返すと、ビュウはそこから躊躇なく飛び降りた。
 「うおっ?!」
 少し置いて、彼女の耳に素直な驚きの声が届くと申し訳ないとは思いつつも小さな笑いがこぼれた。そして椅子から立ち上がると、ビュウの後を追うようにベランダに出て、また彼と同じように洗濯物を退けつつその向こうへ出る。
 彼らの家のベランダは、実際に動ける広さより外に床が張り出していた。それもこれも、長い船上生活でブリッジから甲板に飛び降りる利便性にビュウがすっかり慣れてしまったせいだ。そのお陰で未だにビュウは、何かと理由をつけてはベランダから家を出ていた。
 

 

 フレデリカはベランダから身を乗り出して、ビュウの消えていったであろう方向に目をこらした。だがとうに彼の姿は見えず、代わりに彼の被害者なのだろうか、上を気にするように振り向く男性と目が合った。
 「ごめんなさい!」
 謝罪の気持ちを笑顔にこめて、フレデリカは声を張った。ややあって、男性は笑顔をこちらに向けると大したことじゃなかったよ、と言いたげに手を振り去っていった。
 そんな男性の姿が路地の向こうに消えるまでフレデリカは手を振り替えしてから、リビングに戻りガラス戸を閉める。そしてガラガラという戸に混じらせて安堵の息をはき出した。
 「ふう。やっぱり看板でも下げておくべきかしら」
 そう口にした彼女の脳裏には、ベランダから下がる「頭上注意」の看板が風に揺れるさまが浮かぶ。突然現れる非日常の面白さに、フレデリカは小さく笑うと首を横に振った。
 「やっぱりダメよね。どれだけ気を引いても、まさか人が降ってくるなんて思わないもの」
 「……でもあの人、どこまで行ったのかな?」
 笑顔をひそめて、フレデリカは呟いた。
 彼の表情を見るに、放った言葉にショックを受けているようではなかった。だからこうして、落ち着いて家で待っていられるのだ。それでもビュウは、フレデリカには考え付かないようなことを実行してみせることがあった。ファーレンハイトにいたころにたびたび起こる騒ぎの原因が、大概彼の手によるものだと明かされたときは空いた口が塞がらなかったものだ。
 「ちょっと、言いすぎたかしら」
 もはやフレデリカの心配は、自分の身にこれから起こることよりもビュウの行動によって少なくとも巻き込まれる名も知らぬ人々へと移っていた。しかし時間は巻き戻すことなどできない。諦めるように小さく息をつくと、彼女はコート掛けにかかった薄手のガウンに手を伸ばした。こうなったら、彼の行動に最後まで付き合おうと決意を固めながら。
 

 
 

 そんな決意を根底から揺らすかのように、不意に街路が沸き立ったのは彼女がガウンを纏ってすぐのことだった。大通りから外れた場所とはいえ、人の行き来はそれなりにあり耳を澄ませば人々の声が聞こえる。そんな穏やかな場所に不釣合いな、戸惑いの声が今は街路を覆っていた。
 「なんだ?」
 「急に暗くなるなんて……」
 「向こうの空は晴れてるのになあ」
 「……ビュウ?」
 どうやら今度はかなり騒ぎの規模が大きいらしい。ざわめく胸を押さえながら、フレデリカは家を出ると階段を駆け下りる。息を整えながら空を見上げた彼女の目に映ったもの、それは。
 「ああ――」
 ため息に近い声を零して、フレデリカは自然と祈るように手を組んでいた。
 何者をも近づけさせない漆黒と対照的に、見たものすべてを惹きつける、幻想的なまでに美しい朝焼けの色。まさに神々しいと形容するしかないそれこそ、オレルスの守護神であるバハムートの姿であることを彼女は知っていた。
 初めて邂逅したその日に、抑えきれない感情の変わりに涙がとめどなく流れたことを、フレデリカは今でも覚えている。現にこうして涙を抑えることすら忘れている彼女には、どうして表に出てきたのかすらあやふやになり始めていた。
 「ドラゴン?」
 「いいや、あれは守護神様だ!」
 「あれが――」
 初めはただ騒いでいた人々も、頭上を覆うものの正体が分かり始めたらしく声が波のように引いていく。変わりに彼らの口からは、フレデリカと同じように声が漏れるのだった。
 

 

 そんな彼女たちを見守るようにバハムートはゆっくり王都を数度旋回すると、王城の向こうへ飛び去っていった。奇跡のような出来事に静まり返っていた人々は、じき夢から覚めるように日常へ戻っていくだろう。
 しかしフレデリカはいち早く涙を拭うと、すぐに路地へ入っていった。店の裏にとめてある、買い物用に使っている三輪自転車に乗るためだ。
 何も知らない人からすれば、バハムートは気まぐれに姿を見せただけのように思うだろう。しかしバハムートが飛び去った王城の裏はなだらかな平原が続いており、防衛面から建物どころか畑すらない。
 わざわざ人の寄り付かない場所へ飛び去ったバハムートには、きっとビュウが乗っている。そう確信して、フレデリカはペダルを力強くこぎ始めたのだった。
 

 

 「ありがとうございました」
 「いえいえ、お気をつけて」
 裏門の守衛ににこやかに見送られて、フレデリカは再びペダルをこぎ始めた。
 ――ここまで来るのにずいぶんかかってしまったが、彼は待っていてくれるだろうか?
 ふと浮かんだ不安を吹き飛ばすかのように、地面を揺らすような獣の息遣いが聞こえてくる。それが背中を押してくれているように思えて、フレデリカは自然と口元を綻ばせていたのだった。
 少しずつ全貌が露になるバハムートの姿を追うように、ペダルを漕いでいたフレデリカを待ちきれなかったらしい。全身があらわになるより早く、彼女に向かってビュウが駆け込んできた。
 「……フレデリカ!」
 「ビュウ!」
 一秒でも早く、ビュウの懐に飛び込みたい。しかしはやる気持ちとは裏腹に、自転車を漕ぎ続けた足は疲れきっているようだった。引き剥がすようにして自転車を降りたフレデリカはすぐに走りだしたが、案の定すぐに足が縺れる。
 「あっ」
 「よ、っと。 ごめん、だいぶ疲れただろ」
 「ううん、そんな……なんて今は言えないですよね」
 結果的に腕の中に飛び込んで、フレデリカはせめて元気だと伝えたくて笑顔を見せるとそのまま背中をビュウに預けた。広い背中が、今の彼女にとってこれ以上もなく心地よい。それを待っていたかのように、ビュウは腕を回して抱きしめる。フレデリカが顔を上げると、ビュウが寄り添うように頬を寄せる。ひやりとした感触をひとしきり楽しんでから交じり合った二人の温もりを名残惜しみながら頬を離すと、ビュウは笑みを浮かべながら様子を伺っていた。
 

 

 「どうだった?」
 「……こんなに顔を寄せたのは、久しぶりな気がします」
 「――ええと」
 頬を赤らめ率直に喜びを伝えたフレデリカに対して、ビュウはどこか困っているように言葉をにごらせる。そして体に回していた手をつなぎ直すと、ゆっくりと体の向きを回転させた。つまり今二人の前にいるのは、世界の守護神たるバハムートしかいない。表情こそ分からなかったが、えもいわれぬ威圧感はフレデリカの高揚した気持ちを収めるには十分すぎるようだった。
 「ふてくされるなよ、バハムート。俺だって覚悟はできてるんだからな」
 「覚悟……?」
 ビュウの口から飛び出した不穏な言葉にフレデリカが首をひねるより早く、バハムートの唸るような声が大地を揺らした。心を揺さぶられているようで思わず胸を押さえる彼女を支えるようにビュウの手が重ねられる。その暖かさに後押しされて、フレデリカは小さく息をついた。
 「違った意味で驚かせたかな、大丈夫か?」
 「もう、とっても」
 「なら良かった」
 これ以上言葉にならない、と言いたげに満面の笑顔をビュウに向けると、彼も笑顔を返して大きく頷いた。そしてその笑顔をバハムートにも向けるとおもむろにつないでいた手を放してフレデリカと向き合う。
 「フレデリカ、すまない。本当なら一緒に帰ってやりたいけど、俺はここにバハムートと残らなきゃいけないんだ」
 「どういうことですか……?」
 「フレデリカも見ただろ、バハムートの姿を見た人たちの反応」
 「はい、騒ぐどころか惹かれたみたいにみなさん空を見ていて……」
 フレデリカの脳裏に、ビュウの元に向かう道すがら足を止めては空を見上げる人々の姿が浮かんだ。一度見たあの光景は、早々記憶から消えることはないのだろう。
 「だからさ、バハムートを呼び寄せたのはヨヨには内緒だったんだ。だから俺とバハムートは、これからひどい説教をされなきゃいけないってわけだ」
 「……もう、内緒にするなんて無理に決まってます」
 今も昔も、ビュウの行動は平穏な場所作りにとっては目の上のこぶらしい。何度となく見た、廊下に座らされてマテライトの説教を受けるビュウの姿を思い出し思わず吹き出すフレデリカ。
 その楽しそうな表情に、ビュウも笑うことをやめようとはしないのだった。

かふかふそく
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元々はエイプリルフールネタとして書き始めたものでした。遅すぎない?しかも嘘の部分を回収できてない。元はお題の結果だったかな?「あなたじゃ何かが足りないみたい」でした。
タイトルは必死に考えた結果「過負荷不足」です。目上への迷惑は過負荷で、パートナーへの愛情は過不足なく、というビュウの立ち位置をですね、表したかった……。
どの相手を選ぼうとも、基本的にビュウはどこか変なやつだとは思うので一緒に暮らすには何かとありそうですが、その分退屈はしないで済みそうです。
170514



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