Novel / 雨垂れ

 雨が降り始めて、かなり経っただろうか。
 ラッシュは馴染みのパン屋から分けて貰った古くなった黒パンを、どうしたら濡らさずに済むかを考えながら、路地の片隅で古ぼけたマントを被って小さくなっていた。
 普段は賑やかな街路は、まさに水を差したように人は疎らで、忙しく通り抜けて行く人々の足音も全ては雨音が消してしまっていた。
 普段はお騒がせ者のラッシュも、こう打ち付ける雨相手には太刀打ちできないようだった。
 それも、大切な食料が囮になっているのだ。これを無駄にすると、また暫くパンが食べられなくなる。
 そうするとビッケバッケが不機嫌になり、それを宥めるトゥルースのストレスを溜め、それを見ている自分も不機嫌になる。まさに負の螺旋だ。
 そういえば、今その二人はどうしているだろうか。ラッシュは思案を巡らせる。
 確かトゥルースは金物屋の親父に呼ばれていると言っていたし、ビッケバッケは今夜の暖を取る薪を取って来ると言っていたはずだ。これだけの雨が降っているのだから、二人とも雨宿りなり、住処に帰るなりしているだろう。やはり早めに合流しなければ。ラッシュは立ち上がった。

 ぼたぼたとマントから雨の雫が流れ落ちる。
 かなり古い皮のマントだが、いざという時には役にたつものだ。ラッシュはマントをパンの入った籠に被せると、裏路地へと身を躍らせた。
 長く浮浪児をしている彼らにとって、ここは庭のようなものだ。雨宿りをしている人々の間を走り抜けながら、ラッシュはこれ以上雨足が強くならないようにと祈るばかりだった。
 水溜りを踏み抜け、泥濘を蹴り分け、ラッシュは住処である橋の袂へ滑り込む。
 「トゥルース、ビッケバッケ、遅くなってごめんな!」
 「ワン!」
 「…ワン?」
 彼らが住処としている橋の下は、普段人通りも少なく交代で見張りをしていることが多かったため他人が入り込むことなどなかったのだけれど。
 どうやら、お客様が一匹、迷い込んでしまったようだった。見ると、まだ子犬らしい。やっと親から乳離れした程度の短毛の犬で、この犬も雨宿りできる場所を探していたのだろうか、雨に濡れた毛が針のように立っている。
 犬の足元を見やると、せっかくの敷物が点々と濡れている事に気づく。思わずため息。

 「お前なぁ、ここが誰の寝床かわかってるのか?カーナ城下町一の悪ガキの」
 「ワン!」
 子犬は自分を構ってもらっているものなのだと勘違いしているのか、短い尻尾を千切れんばかりに振って、ラッシュをくりくりとした瞳で見上げていた。
 ラッシュはどうしたものか、と後ろ手で頭を掻いた。昔から子供の面倒は見ているので子供の扱いには慣れてはいるが、動物の扱いはさっぱりだ。特に子犬などは--眼中にすらなかった。
 はぁ、とため息を一つ吐いて、パンを子犬の届かない椅子の上へ避難させる。
 そして子犬を拾い上げるでもなく、頭を撫でるでもなく、その場にドカリと胡坐をかく。
 ぽたぽた、と雨垂れの音。ぱたぱた、と尻尾を振る音。
 子犬は飽きないのだろうか、見下ろすと未だにラッシュを見上げている。
 「何を期待したってダメだぜ、俺たちみたいなのはな、自分でどうにかしなきゃ野垂れ死ぬんだ」
 犬に言っても分からないか、と思いつつ手足を放り出し、脚橋にもたれ掛かる。
 すると犬は待ってましたとばかりにラッシュの太ももに前足をかけ、腕を舐め始めた。
 くすぐったさと、少しのうざったさと。それでも暖かな生き物の温もりに、ラッシュは子犬を抱き上げた。
 抱き上げるといっても、脇の下から無造作に手を突っ込むだけだ。扱いなんて全くわからない。
 ぶらりぶらり、と宙ぶらりん状態の子犬とラッシュ。言葉はなくても、野良犬同士どこか通じ合っていたのかもしれない。不意にラッシュは口角を上げてふ、と笑う。

 「そんなに俺が気に入ったなら、俺たちの弟子にしてやろうか」
 子犬は了解した、とでも言いたげに甲高い声で吠えた。相も変わらずしっぽは振り続けられていた。
 そういえばトゥルースやビッケバッケはこの子犬について何か言うだろうか、とラッシュは思案した。
 トゥルースは動物嫌いだと聞いたことはないし、ビッケバッケに至っては人間だけでなく動物にも好かれやすい性格だったはずだ。何も問題はない。
 問題になるとすれば餌の問題だけれど、犬一匹どういったこともないだろう。野良犬だって自分たちのような孤児だって、毎日同じような生活を送っているのだから。
 後問題になることといえば、名前くらいなものだろう。
 せめて呼びやすい名を、と語彙の少ないラッシュの頭で必死に考えていると。
 不意に、竜が嘶いた。
 こんな町外れに竜がやってことすら珍しい。ラッシュはとっさに橋から頭を覗かせた。


 雨はいつの間に身を潜め、霧雨へと姿を変えていた。それ浴びながら、川には鮮やかな虹が掛かっていた。
 その虹に負けぬような、鮮やかな真紅の竜が1頭川岸に羽を休めていた。
 そしてその竜から、降り立つ人物が一人。遠目からでハッキリとは分からないが、一般人に許されていない帯剣をし、皮鎧を纏ったこの人物こそ、カーナ随一の戦力を誇る戦竜隊その人に違いない。ラッシュは興奮して子犬を抱いたまま外へと飛び出していた。
 「すげぇ、本物の戦竜だぜ、戦竜!」
 ラッシュは目を輝かせた。普段から竜は珍しいものだったが、戦竜となれば話は別だ。
 戦竜はカーナの軍隊が、外部に情報を一切漏らさない存在だ。その存在のために調教師をつけ、オレルスの中でも群を抜く戦力を持っているのだと聞く。浮浪児であるラッシュが知っている情報はこの程度ではあるが、逆に言えば一般市民の末端まで戦竜隊の名は知れ渡っていることになる。
 カーナの住民の自慢であり、また同時に憧れでもあるのだった。

 真紅の竜の騎乗主である男は、竜からひらりと降りると竜の頭を顔に寄せて何かを語りかけているようであった。たったそれだけの事でも、ラッシュにとっては一枚の絵画を眺めているようだった。
 「俺たちも、あんな風になれるのかな」
 子犬に語りかけているのか、自分に語りかけているのか分からないラッシュの心の声。
 人間、頑張れば努力は必ず実る。ラッシュはそれを信念に生きてきた。
 けれど川岸にいる竜と男の存在は、目の前にある川より広く、深い隔たりがある。
 まずカーナ戦竜隊に入るためには、それなりの地位と、教養と、一芸が必要なのだと言われている。
 自分はといえば、今は身寄りのない孤児であり(自分で選んだ道ではあるけれど)、教養はなく、
 一芸といえば逃げ足の速さくらいなもので、とてもではないが城の前で門前払いされるような人間だ。
 努力すれば、協力しあえば、彼のようになれるなら。今のこの状況から抜け出すためには、出来る限りの事をできる限りに頑張ろう。

 「よし、お前の名前は今日からロートだ、分かったなロート!」
 ラッシュはまずは弦担ぎに、とばかりに子犬に声をかける。
 するとその声を聞き取ったのか、川岸の向こうにいるはずの竜が一声鳴いた。
 まさかその竜の名前が同じなのだろうか?と疑問に思ったが確認する術もなく。
 ロートとラッシュは、その真紅の竜が再び空へ飛び立って行くのを見届けた。
 空は雨上がりの茜色、その色に吸い込まれて行く竜を見届けながら、ラッシュは遠い夢のような世界を頭に描いていた。その竜の背中に自分を乗せて、自由に空へ羽ばたく夢を。



そんなラッシュがビュウに出会う、少し前のお話。

雨垂れ
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製薬じゃないよー。というわけで梅雨入りしてしとしと降る雨音を聞きながら話の流れを考えました。
ドイツ語はカッコいいとは思うのですが、どうにもプルプルロート(真紅)ってのはどうにかなりませんかね。
完成までに2度書きかけが消えて萎えかけたのはもうここだけの話でいいやorz



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