Novel / 置き場所がない


 鼻先を掠める香りが変わるとき、俺の気持ちは黄色に点滅し始める。
 それは散々たる経験に基づいているのだが、起きてしまった以上は仕方ない。
「はあー……」
 何度目だったかな、というもやもやした気持ちを吐き出すと「それ」が掛かっていたはずのドアノブに手を伸ばしたのだった。

「――来たか」
「待ち伏せでもしてたみたいな言い方はやめてくれ。こっちはすでに憂鬱なんだ」
「誰のせいだと?」
 にやり、と口の端を吊り上げてホーネットはビュウに笑いかけた。煌々と照らされた部屋の中にあって、本人の周囲だけが光を避けているかのように薄暗く感じるのは気のせいだろうか。壁に投影されている彼の影が待ち構えているかのように不気味に見えた。
「だから来た――、なんて言うのは嘘だな。その匂いを嗅いだ瞬間逃げ出す方法を考えてたよ」
「この前とは違う豆だ。喜べよ」
 言い終わると同時に、ホーネットはすでに飲んでいたのかマグカップを手に取ると中身をいくらか飲んだ。コクコクと動く喉の動きに目を取られている間に、その焦点は褐色の液体へと移り変わっていた。
「ほら」
「……どうも」
 ただ勧めたい一心で差し出されたであろう飲みさしを受け取って、ビュウは手首を軽くひねってマグカップを動かした。そしてシンプルな白地のそれに唯一付いた、同じ琥珀色をした唇の後をなぞるように口をつけると、ほのかな香味といっしょに残りのコーヒーを飲み干したのだった。

「どっちが好きだ?」
「前のはどこのだっけ? 全然覚えられる気がしないよ」
 マグカップを返すとビュウは曖昧に笑った。ホーネットの纏っていた薄暗い雰囲気はすっかり消え去り、早速次を煎れようとカウンターに戻った彼は呆れたように笑い返した。
「覚える気がない、んだろ。どっちもダフィラ産だ。育てる場所次第でこうも味が変わるなんて、こんなことがなければ一生知らずにいたんだろうな」
「それは良かったな。で、俺は前のほうが好きだな。酸味はもっと強い方がいい」
「――コーヒーの好みまで合わせるのは大変そうだな、まあいい」
 諦めるように小さく首を振ると、ホーネットは滑らかな動きでサーバーに残っていたコーヒーを空いたマグカップに注ぎ始める。それを見届けることなくビュウはいつもの椅子に腰を下ろすと、その正面、テーブルに置かれた「本日の主役」を否応なく見下ろすことになったのだった。

「さてさて、どうぞ」
「中は開けたのか?」
「まさか」
 目線は決してそれには向けずに質問を鼻先で笑いながら、ホーネットは短いワイングラスをビュウの前に置いた。普段なら見慣れない色合いの液体は、形のせいだろうか清涼感のある香りが鼻腔をくすぐった。
「こうしてみれば……なるほど」
「何一人で納得してるんだ。変な組み合わせが意外な発見にでも繋がったか?」
「そう、みたいだ。マグカップじゃなくてもいいかもな」
 グラスを手にゆったり揺らすと、ふわりふわりと香りが広がる。コーヒーの意外な楽しみ方を知り楽しむビュウの顔がふ、と息を感じ取った。
「勘弁してくれ、匂いが移るだろ。だから前もって持ってこいと言わなかった俺の責任でもあるけどな」
「これがあるたびにマグカップを持ってくるおれの気持ちにもなってくれ」
 相手にすぐ断りを入れない男と、事の責任を負おうとしない男。譲り合わない二人の視線がぶつかり合い、やがてそれは笑いへと変わる。今この時間を楽しむように、ホーネットはそれなら、と話を切り出した。
「ここに置いておくためのマグカップを……新しく手に入らないのか? そもそもコップ一つに予備がないのは問題だろうに」
「全員分となるとなかなか、な。それにアレは俺のお気に入りで――」
 困ったように眉をしかめるビュウの表情に吹き出す手前で、ホーネットはなんとなく頷き誤魔化すことに成功した。かなり年期が入っているであろうドラゴンのシルエットが入ったマグカップは、今失ったら同じものを入手するのはさぞや大変だろうと想像がついた。

「――なら都合がいい。探しに行けばいいだけの話だ。そうだろ?」
「突然何を言い出すかと思ったら……。アレはなあ」
 当然のように言ってのけるホーネットの提案を、ビュウは苦笑いで受け止める。彼の話をもっと聞きたいと思う以上に、後一押しのところまで来たという思いがホーネットの口を滑らかに動かしていた。
「せっかくだからそのときはおそろいにしよう。あそこに並べたら、らしいと思わないか?」
 何とまでは言わず、ホーネットはカウンターを指さした。様々なグラスが並ぶ中で、一つだけ空いた場所がマグカップの置き場に違いなかった。
「……置き場所が足らないな」
「そんなもの、作ればいいさ。もうこの部屋は俺だけの居場所じゃないんだからな」
 笑顔で何事もないようにさらりと言ってのけるホーネット。視線を逸らしてはにかむビュウ。ここでしか味わえない空気に、柔らかなコーヒーの香りが絡み合い二人の時間を作り出したのだった。
置き場所がない
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フリーワンライのお題にのっとってホネビュウワンライです。
人の私室に私物を置くのって、相当仲がいいか主が寛容でないと難しいと思うんですよね。
つまりそれだけ通っている証拠でもあって……!
ということで一人で盛り上がって書きました。早く二人でデートに出て欲しいです。
2021/06/16



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