彼は、毎食後に出てくるこれをまずそうに飲む。
なにもそこまで顔に出さなくても、と思うが、そうまでして「これ」から逃れたい思いがあるのだろう。
「嗜好品なのだからむしろありがたく飲むものですよ」そう口にしたのはいつだったか。結局聞く耳を持つどころか、挙げ句この言葉と一緒に苦情が返ってくる。
「……だから、見てないで手を出してくれればいいんだって。トゥルースの慰めは聞き飽きたし、それでこの苦みがどうにかなるもんじゃないだろ?」
「ラッシュ、あなたは本当に変わりませんね」
「おうよ」
口をすぼめて酸っぱく言葉をはいていたとは思えないほど、目の前のラッシュは歯を覗かせて快活に笑う。それがたとえ目の前の湯気を立てるマグカップからの一瞬の逃避であったとしても、彼は一瞬一瞬を全力で楽しむ性格なのは幼い頃からともに暮らす自分にはよくわかっている。
「だからさ、さっとキッチンにいってミルクを入れてきてくれねーか?」
「自分で行けばいいじゃないですか」
苦笑いとともに返事をする。やはり自分が買いかぶりすぎていたらしい。
目の前の彼――、ラッシュは断られたことに表情ではっきり不快感を表した。そしてすぐターゲットを切り替える。彼の左に座るビッケバッケの耳にはこの話など入っていないに違いない。最近熱心に経済と貨幣に関する本を読み漁る彼は、今日もまた机の角を本の支えにして読んでいるようだった。
「なあビッケバッケ、頼みがあんだけどさ」
「……ぼくが飲んでもいいよ?」
「なに、ホントか?!」
……げほ、げほげほ。
思わぬ良い返事に下手くそな咳でラッシュは声を打ち消そうとする。
それにしても、意外に声は届くものらしい。というよりビッケバッケは耳と目を同時に働かせて、この馬鹿らしいやりとりを黙って見守っていてくれたようだ。そう思うと途端に恥ずかしさがこみ上げてきた。
ラッシュの向こうでこちらを見ている、ビッケバッケの丸く穏やかな顔がにこりと笑っている。ラッシュに見えていないのをいいことに苦笑いを浮かべて小さく頭を下げると、縋るようにマグカップを手に取った。ふわりと立ち上る香りを未だ暖かな熱を持ち、琥珀色の液体が緩やかな波を描いている。
「本当にラッシュはコーヒーがダメなんだね」
「それもブラックな。なんだよブラックって、カッコつけやがって」
名称を連呼しながら、ラッシュは不満に口を尖らせる。机の上のカップをにらみつけると、ついでにそれをそっとビッケバッケの方へと押しやった。それでいて悪夢は去った、とばかりに満足げな顔をする彼の単純さに笑ってしまいそうになる。
それをコーヒーで洗い流し改めて二人を見ると、結局ビッケバッケが引き受けてくれたらしい。小さく吹き出し傾いた背もそのままに、ラッシュのマグカップを引き寄せのぞき込んだ。
「それにしても入れすぎじゃない? 飲めないなら無理しなくていいのに」
「……誤算だったんだ、俺の」
途端に声のトーンを落として、ラッシュはがくりと肩を落とした。彼のマグカップに入っているコーヒーは普段から人の三分の二ほどだったが、それでも今までは文句を言いつつ飲みきっていたのだから何も問題はなかった。はずだ。
「誤算? 何かあったの?」
個人的な事情とは言え、家族が困っていたら進んで解決に協力するものだ。興味を寄せたビッケバッケが顔を向けると、改めて彼に顔を向けたラッシュは嘆息混じりに事情を語り出したのだった。
「まさか豆を目の前で入れ替えるとは思ってなくてさ…。「そのままでいいから!」って無理やり止めてやろうと思ったぜ」
「でも止められなかった、と」
思わず感想を挟んで、私はしまった! と顔を正面に戻した。
だが時すでに遅し、視界が捉えたラッシュのにやけ面が今は少しだけ憎たらしい。自分の過去は棚に上げて、彼はもったいぶって口を開いた。
「なんだよ、トゥルースも興味あるんじゃねえか。なら聞かせてもらうけど、周囲から自分だけ明らかに浮いてるとき自分ならどうする?」
明らかに誘導された答えに、わずかに下唇を噛んで私は答えた。
「……一時的な恥を忍んで、極力周囲に合わせます」
「だろ? で、今回はよりによって飲み食いするもんだ。無駄はいけない、でもそのままは苦手だし薄めることもできない。そこでどうにか被害を押さえるべく状況を観察し続けて俺は気づいたんだ」
説明を続けながら、ラッシュは私たちに視線を振りつつ事態の理解を確認しているようだった。自分に話を振ったのもその一環でしかないと気づけただけでも、感情のすれ違いを起こさずに済んだというわけだ。
「コーヒーメーカーの豆を入れ替えるタイミングで並べば、薄いコーヒーで済むってことかあ。考えたね、ラッシュ!」
「なんだあ、ビッケバッケに先を越されるなんてな。でもその通りだぜ」
にこりと笑うビッケバッケにそう返しつつ、ラッシュは彼の推理力と育まれた友情に軽く左手を差し出した。それを握り返す様子は昔から何度となく見てきた光景だった。
「だからここに来てから食事をゆっくり取るようになったんですね。てっきり考えを改めたのかと思っていましたが、それとは違うことを考えていたとまでは及びませんでした」
「……まあ、早食いしただけお代わりができる訳じゃないしな。 そうじゃなくて!」
気を良くしたせいかラッシュは自分の言葉に勢いよく突っ込みを入れる。テンポの良さに二人で合わせたかのように笑いがこぼれると、カップから上る湯気がわずかに揺れた。
カーナの寄宿舎にナイトとして寝泊まりするようになってからも、ラッシュの食事は基本犬喰い早食いが当たり前だった。それを競っていたビッケバッケが焦らずとも腹一杯食べられることを学んで競争から脱落しても、彼だけは変わらず我先にと食事を平らげお代わりを求める常連だった。
そんな様子でずっと忠告を受け入れる様子のなかったラッシュが、コーヒー一杯で考えを改めることになるとは。
ただの眠気覚ましにと用意されたそれに口をつけながら、望まずともラッシュの成長をこうして目にできたことに心がぽっと暖まるのを感じていた。
だが一方のラッシュの不満は止まらない。その視線は自分を飛び越えて、キッチンにあるはずのコーヒーメーカーを睨みつけているようだった。
「……なのに今日は違ったんだ。俺の目の前で豆を交換し出したんだぜ? 後は俺を含めて数人だっていうのによ、なんでだって聞いたら濃いコーヒーでゼリーを作っていつもとは違った楽しみ方をするんだーなんて言い出してよ。俺にはどうでもいいしむしろやめて欲しかったんだけどな……」
淀みなく流れる彼の愚痴は、いつしかお湯を注がれたフィルターからこぼれ落ちる最後の数滴のように歯切れが悪くなっていた。
想像すればするほど憂鬱な気分に陥ったであろう彼の暗い表情から救うべく、声をかけようと目線をあげた先でまさにビッケバッケもこちらを伺いたかったのか丸い栗色の目がきょろきょろと動いていた。
「――だからさ、ほら! これさえ飲んじゃえば、ラッシュもぼくらも幸せってことだよね。ねっトゥルース!」
「ええ、そうですね」
返事の代わりに数度の瞬きを返すと、ビッケバッケは持ち前の明るさでラッシュの顔をのぞき込むように語りかけた。振り向き言葉を探す彼をさらに励まそうと自分のマグカップを手に取ったが、すでに中身は冷め切っているのか湯気のひとつも立たなかった。周囲が食後の団らんを切り上げ初めているところも含めると、そろそろこの始末をつけなければならないようだ。
「せっかく次はゼリーが出てくると教えてくれたんです。そろそろ私たちも部屋に戻りましょうか」
「じゃあトゥルース、よろしくね!」
「えっ」
明るいビッケバッケの声に一瞬思考が止まる。詰まらせた声を無視して、ラッシュが押しつけたはずのマグカップがするすると自分の前へ運ばれてきた。
思わず凝視をしてもそれを無視するようにビッケバッケは席を立つと、未だ湯気の上るマグカップを手に柔和な笑みを見せる。
「トゥルース、もう残りちょっとでしょ? ぼくはこれを読書の友達にしたいんだ。そういうことだから、またね!」
「それ読み終えたら声かけてくれよ!」
あっさり立ち去ろうとするビッケバッケの背中に、こともあろうかラッシュはその先の約束を取り付けている。最近何かと一人でいがちな彼がここまで絡んでくれたことが単純に嬉しかったのかもしれないが、それにしても自分への負担を全く考慮しないやりとりに思わずため息がこぼれた。
「そんじゃあ、ほら」
「なにがほら、ですか。ラッシュは知らないでしょうが、コーヒーに含まれる成分は用が近くなるだけじゃなくーー」
ラッシュはただ覚醒効果と苦みを比べて後者を取ったが、もたらす効用は様々なものがある。それを伝えようと口を開いてみたものの、始めから取り合うつもりはないらしくラッシュは右手を突き出した。
「それ、もらうぜ」
「……まったく。夜付き合ってもらうことになるかもしれませんからね、先に寝ないでくださいよ」
「……? おう」
言葉の意味が理解できないのも無理はないだろう。首を傾げてラッシュは半ば奪うようにマグカップを受け取ると、底がうっすら見えているそれを一気に飲み干した。
そして当たり前のようにまずそうな顔をこちらに向ける。
「いちいちリアクションしないで飲めないんですか?」
「おれだってしたくてしてる訳じゃねーよ、っと」
空のマグカップを手に、椅子を降りたラッシュは空いた手でグラスの中の水をあおる。そしてやっと刑期から釈放された囚人のように両手を天井まで突き上げるとこちらを振り向いた。
「ありがとよ。この借りはいつか、たぶん、きっと……返すからな。じゃ!」
掲げたマグカップはさながらトロフィー代わりに違いない。ラッシュは晴れやかな笑顔をこちらに向けるとそう言い残しキッチンへ向かった。
「仕方ないですね……」
結局後処理を任されてしまったそれの取っ手を握る。ずいぶん冷めてしまったそれの冷たさに一瞬驚いたが、一応の努力を見せたラッシュのためにも飲んでおいた方がいいだろう。
わずかに残った跡に唇を重ねて静かにすする。流れ込んでくる尖った苦みの中に感じられる、果実としての甘さに自然と微笑んだのだった。
琥珀色の憂鬱
1日がコーヒーの日と聞いて、書きたくなったものその1。ナイトトリオのほのぼのとちょっとラッシュとトゥルースの絡み……をトゥルース視点で。
個人的にですがラッシュは口先じゃ大人ぶっていても味覚も含めて子供から卒業できていなくて、ピンチをまだ二人に甘えて乗り越えそう……と思っています。
たかが食後の一杯なので思い詰める必要もないんですけどね。戦場はまた別です。
そもそも食後のコーヒーを出す余裕があるのだろうかとか、普段食べてるものの謎は深まるばかりなのでリメイクされるなら是非そこも含めて描写して欲しいです!
2021/10/03