「見てみてパパ、水路がキレイだよ!」
橋の欄干から落ちそうなほど身を乗り出して、まだ幼い少年は真っ直ぐ水路を指差した。そこに後からやって来た父親は、穏やかな表情のまま彼の頭を優しく撫でた。
「ああ、そうだね。この明かりは、亡くなった人の魂を表しているんだよ」
「えーっ、このまま流れて行っちゃうの?」
「うん。でも大丈夫、魂はこの船に乗って天国に行くんだよ」
「そっかあ!」
安堵に続いて、けらけらと笑う少年の声が水路に響く。そこで彼は納得したらしく、父親に大人しく欄干から下ろされると二人は仲睦まじく手を繋いで去って行った。
「……………………」
そんな親子が去って行くのを、同じ橋の向かいで見ていた一人の少年がいた。
ただ微笑ましい光景を見守っていたようにしか傍からは見えなかったが、その背中が見えなくなった頃、彼の口から重く長い溜息が漏れ出た。
「キレイ、で済むなんて、あの二人は不幸を知らないんでしょうね」
欄干に一人残された少年の呟きは、自身の身の上を慰めているように流れる。愁いを帯びた睫毛が灰色の目に影を落とし、彼は再び向き直ると視線を水路へと戻した。変わらず両脇を石垣に挟まれた透明度の高い水路の上を、ぽつぽつとロウソクの灯火を乗せた木製の舟が流れていく。そのロウソクの四方を薄い紙で覆っているせいか、ぼんやりと浮かび上がる柔らかな灯りは人の心を癒やすのだろう。
「…………いけませんね、時間を無駄に過ごすところでした。戻らないと」
再び自分に言い聞かせるように呟いて、少年は水路から視線を戻すと大きく頷いた。過去をどれだけ憂えても、今の彼には身を置く場所も待ってくれる人もいる。同じ悲しみを背負った者はいなくても、心を寄せてくれる大事な兄弟分が。
「――あ! いたいた! おいトゥルース!」
「……あ」
呼び掛けられた少年の名前を呼ぼうと開いたトゥルースの声は、その少年の声にあっという間にかき消されてしまった。
少年は人通りの多い方角からひょっこりと姿を現したかと思うと、一気に小走りでトゥルースの元へと辿り着いた。緩いグレーの膝下のパンツによれた襟付きボタンシャツを外に出している姿の彼は、言われなければ国を守る立場だと言われても信じられそうにない。そう言ったら今の自分もそうなのだけれど、とトゥルースは事のおかしさに笑いがこぼれた。
「ビッケバッケー、いたぞー!」
トゥルースが口を開くより早く、少年は後ろを振り返り声をメガホン代わりにもう一人の少年に呼びかける。ややあって足をばたつかせながら姿を見せた少年の姿に、場の雰囲気が和むのをトゥルースは感じていた。
「どこ行ってたんだよ、探したじゃねーか」
「すみません。追いかけるつもりだったのですが、珍しいものを見かけたので」
つい、とこぼしながら、トゥルースは欄干の向こうに顔をやった。追うように目を向けた少年の背中を、やっと追いついたのかビッケバッケの手のひらが軽く触れる。
「はあ、はあ……。ラッシュは足が速すぎるんだよう」
「ビッケバッケが遅すぎるんだっつーの。それより下を見てみろって」
乱れた息を整えながら、トゥルースはラッシュに訴えてかかる。遅い成長期なのだろう、最近身長の伸び始めたラッシュは首筋に掛かるビッケバッケの息から逃れるように一歩身を引くと、その体を欄干に預けて顎をその外へ向けた。
「わあ、水路が光ってる! トゥルースはこれを見てたの?」
「ええ、そうです。この時期にしか流さないものなので、つい足を止めてしまいました」
見たままの感想を口にしながら欄干から身を乗り出したビッケバッケの瞳には、灯籠の明かりが浮かんでは消えていった。そんな彼のシャツをラッシュが握っている光景に思わず笑みをこぼしながら、トゥルースは優しく説明を繰り返す。
「そっかあ! もしトゥルースがぼくの知らないところで声を掛けられてたらどうしようって思ってたよ!」
「……そんなこと言えるのは、ビッケバッケが食い物の屋台ばっかり見てるからだよ、なっ」
親切の裏の事実をあっさり暴露しながら、ラッシュはシャツを握った手に力を込める。軽い踏み込みと共に引っ張られ、ビッケバッケの足の裏はあっさりと橋についたのだった。
「えへへ。でもやってることは野良犬してた頃と同じなのに、同じようにはならないのって不思議だと思わない?」
反省の色を全く見せないビッケバッケが軽く照れ笑いを浮かべる。それは許容と信頼が三人にあるからであり、長く続いた路上生活の殆どを三人で過ごしてきたことの証左でもあった。
だからこそ浮かぶ質問を、ラッシュは当然とばかりに笑い飛ばした。
「ったりめーだろ! ならビッケバッケは、その店のオヤジに「かわいそうだから」って言われて食い物渡されたいか? そんなのおれはやだね!」
「そう言われたら、確かにやだなあ……。でもつい見ちゃうんだよなあ」
表情を曇らせたビッケバッケは両手を揉みながら答えた。しかし彼の漏らす通り、ビッケバッケには露店に並ぶ商品と店主の顔とを交互に見る癖が未だに残っていた。それも大概が食べ物の露店であることを冷静に分析している。だからこそ、こういう場面で彼はトゥルースに解決策を求めるのだ。
「……ねえトゥルース、ボクどうしたらいいのかな?」
「――心配しすぎなくても、自然と治ると思いますよ。今の私たちには帰る場所も食事も、それに多くの仲間や目標がありますから」
少し間を置いて、トゥルースはにこやかに喋り始めた。一緒に耳を傾けていたラッシュも、うんうんと頷きビッケバッケに笑いかけている。とりあえず納得はしてくれたのだろう顔を上げた彼に向かって、トゥルースは最後の一言を投げかけた。
「それに小腹が空いたなら、買えるだけの小遣いがあるじゃないですか」
「……欲しいと思った時に使ってたら、すぐお財布が空になっちゃうよう」
いかにも人の良さそうな笑顔をトゥルースは向ける。だがビッケバッケはぼそぼそと答えながら、それから逃れるようにラッシュに視線を移した。しかし彼も助けるつもりはないらしく、さっと顔を強ばらせるとズボンのポケットをさっと押さえた。
「おれは出してやらないからな?」
「ちえー、ダメかあ」
そう答えながらも、ビッケバッケの表情に残念さは感じられなかった。そもそも、家族と言っても差し支えない兄弟に執着するつもりなど元からなかったのだろう。にこりと笑うと、改めて欄干の隙間から水路を流れ続ける灯籠へと目を向けた。
「もし、この流れてる灯籠が全部砂糖菓子だったらいいのになー。ほら見てよ、白くて灯りがふわふわしてて……。じーっと見てたら、そう見えてこない?」
「そんなに腹減ってんのかよ……。ほら」
ビッケバッケの子供じみた言い分を耳にしたラッシュは、若干呆れながらも財布のポケットとは反対から包み紙に入った飴を取り出した。目の前でふりふりと振られるそれを、ビッケバッケは彼とは思えない素早さで受け取りこよりを開く。もちろん中身は直接口の中だ。
「ありがとう! んふふ」
いただきます、をすっ飛ばした所を見るに、本当にビッケバッケは小腹を空かしていたのだろう。満面の笑みで飴を頬張る彼の姿に、トゥルースもラッシュも安堵を覚えていた。
「ビッケバッケがこうですし、早く宿舎へ帰りましょうか」
「おれは構わねーけど、見てたのにもトゥルースなりの理由があるんだろ?」
先を急がせるべくビッケバッケの肩を軽く叩いたトゥルースに、ラッシュが心配そうに声を掛ける。時期柄の物であると話してしまった以上、理由なく留まるはずがないと思われているのだろう。それもまた事実なのだが、兄弟を案じるラッシュの思いにトゥルースは事実を隠さずに話すことにした。
「――この灯籠流しは、元々この時期に死んだ家族の魂を悼むために、灯籠に灯りをともして舟に乗せて流し始めたのが始まりなんだそうです。天国へ魂が迷うこと無く向かえますように……、と」
「……流さなくてよかったのか、トゥルースは」
穏やかな口調と表情に耳を傾けて聞いていた二人だったが、ラッシュはぽつりと質問を漏らす。彼の言う通りであれば、毎年家族を想って灯籠を用意しているはずだ。だが幼少期に出会ってから、一度として灯籠流しに参加したことは記憶になかった。
「家族が死んだ翌年に、親戚に連れられるがままに流しましたよ。だからそれで親族に対する責務は果たしたと思いますし、それ以上行動を起こすつもりはありません」
「トゥルース……」
相変わらず口ぶりは穏やかだったが、過去彼から聞かされた身の上話を思い出せば表情に影が落ちるのも仕方ないと思えた。だからこそ、これ以上ここにいる必要はない。誰かがそう口にする前に、トゥルースは顔を上げて二人の表情を見比べたかと思うと、面白い物でも見つけたかのように笑った。
「そういうラッシュもビッケバッケも、故人に対して灯籠を流したことは?」
問いかけに大きく首を振って否定する二人の姿は、まるで悪事を追及されたかのように見える。それに言い訳するかのごとく、ビッケバッケはハキハキと答えた。
「もし流したことがあったら、美味しそうなんてボク言わないよ!」
「そうだよなー。ビッケバッケは今日のご飯の方がずっと大事だもんな!」
「ボクだけみたいに言わないでよー、みんな大事だよね? だったら先に帰って、二人のおやつを少しだけ貰っちゃうから!」
同意を求めるように顔を交互に見ていたかと思うと、ビッケバッケはそう宣言して軽くジャンプをし始めた。これはまずい、と二人が手を伸ばしたその間をするりと抜けて、ビッケバッケは明るく笑うと背を向け小走りで元来た道を戻り始める。
行き先はもちろん、カーナ城の敷地内にある戦竜隊の宿舎だ。食べ物のことで、ビッケバッケが嘘をついたことがないのは二人も理解している。
「いっけね! あいつ、本気だぜ?」
「まあまあ、少しと言っているのですから焦らなくても……」
等分に配給されたお菓子は、日持ちがするもののためその時食べきるかは個々の自由だ。だが元の量が減ると目の前で宣言されれば多少焦るのも無理はない。それが手首を掴まれる形となって少しずつ橋を離れ始めたトゥルースは、それならば、と空いた手でシャツの胸ポケットを漁った。
「ラッシュ。これで帳消しになりませんか?」
「あ? ……いらね。元々トゥルースのもんだろ? 大げさかもしれねーけどさ、それが原因で寂しい思いをされたらおれの気分が悪いし」
不機嫌そうに答えながらも、ラッシュはトゥルースの指先に摘ままれた飴玉を一瞥した。
もちろん町中でお菓子を買うことは今の身分なら問題なくできる。だが過去の経験か食料が出てくる現状か、手持ちのお菓子は以前の配給物であることが殆どだった。
「食べ物の恨みは怖いですしね。分かりました」
「そういうことじゃねーって!」
言葉の意味の通りとはいえ、ふざけきったトゥルースの回答にラッシュは思わず振り返る。声を張りあげたその先にあったのは、意外にも現状を楽しんでいるトゥルースの笑顔だった。
「……あ、断られてショックを受けてるのかと思ってたぜ」
「いつの話をしてるんですか。それはともかく急ぎましょう、ビッケバッケの少しはあてになりませんから」
「おう、走るから振り落とされんなよ!」
目をしばたかせながら呟くラッシュに困ったように笑いを返すと、トゥルースは持っていた飴をポケットに戻した。そうして掛けた号令に、駿馬は勢い付いたのか握った手もそのままに走り出す。御しきれなくなるのも時間の問題だと思いつつ、トゥルースはラッシュとともに水路の流れを後にした。
悲しみにくれる背中は、もうどこにもなかった。
spirits are gone
そもそもお盆の風習が日本独自のものなので、どうしようと悩みつつ書いてみた。カーナの宗教ってどんな感じなんでしょうか。……バハムート教?
ケルト・キリスト教的なものだとハロウィンが存在するのでそちらが本番ですね!
まろやかナイトトリオって感じですが、最初はラシュトゥルになる予定だったんです本当です。トゥルースの家族設定については昔書いた物をそのまま引き継いでます。
2022/08/11 付