「ありがとう、みんな。それに……」
含みを持たせてモジモジと体をくねらせているのは、この船で最長年のセンダック。両手一杯に色とりどりの花を抱きながら、ある一点に熱っぽい視線を送っていた。
「あー、これからも無理せず頑張れよ、センダック」
周囲に人がいるとあっては、その視線を交わし続けるにも無理がある。言葉に少しの感情を込めて、ビュウはにこりと微笑んだ。
「ビュウ……! うん、頑張るからね!」
だがそれで彼には十分だったらしい。明らかに一人だけに向けた特別な思いを込めて、センダックは口を覆う白髭をくしゃりとさせて満面の笑みを見せたのだった。
「……はーっ、なんだかなー」
古びた椅子にどかりと座り込んで、ラッシュは深く息を吐き出した。彼の悩みを代弁するかのように軋む椅子の背に、両肘を乗せたビッケバッケが不思議そうに彼の顔を覗き込んだ。
「どうしたのさラッシュ、そんなに自分の親がいないのが憂鬱?」
「ちげーって……。親がいないのはどうでもいいんだけどよ」
顔を上げたラッシュのへそを曲げた子供じみた表情は、ときたま親の存在を意識したときに見られるものだ。この船に親子で乗り込む仲間も意識させる存在だったが、親の不在はビッケバッケにも当てはまる。なおも口を尖らせラッシュは不満を訴え続けた。
「老人を敬おうっつーのは分かる。おれらも世話になってるしな。分かるが見たかあの顔。どう見ても一人しか見てねーじゃねえか。なあ、どう思ってんだよビュウは」
「やっぱりそう来るよなあ」
ぎりぎり、と古びた歯車が回るような速度でラッシュの顔はゆっくりビュウへと向く。だが壁にもたれ掛かりながら腕を組むビュウは、そう答えるとひとつ明らかな溜息をついたのだった。
「――その感じですと、隊長はセンダック艦長への対応に悩まされているようですが」
「ナイスフォローだ、トゥルース」
瞑った目を開き、腕を解く。そして左手を旗のようにひらひら振ってみせると、ビュウはゆっくり三人を見回し苦笑いを浮かべた。
「センダックの俺への異様な執着が始まったのは、何も今に始まった話じゃない。お前たちが気付いていない裏で、俺は何とか関係を昔に戻したいと努力はしてみたが……」
ビュウの脳裏には優しく繊細で、どこか頼りないながらも芯の通ったセンダックの姿が思い浮かぶ。だがそれは過去の話で、正直今の彼と同一人物だと言われたら答えに詰まる自身があった。
だからこそ絶えた言葉の続きを言うより早く、首を振ることで三人に思いを伝えることになったのだ。彼への呼び掛けになるかは分からないが、問題を掘り起こしたラッシュに笑みを向けた。
「……そういうことだ。今からでも俺の代わりに労ってもいいからな、ラッシュ」
「――遠慮しとくわ」
「あはは……」
本気半分の冗談を溜息交じりにかわされてしまうと、もはや後には苦笑しか残らない。そうなれば立場が起こした悲劇に終幕が下りることを後は祈るしかない。そんな現状を苦々しい笑いで流したところで、
「それじゃあさ」
とラッシュが次の疑問を投げかけた。
「ビュウの立場なら、もっと他にも労いたいジジイっているだろ?」
「――それなら確かに、私たちも直接お世話になってますね」
トゥルースが頷く。そうして二人の視線が合うまでに、ビュウの脳裏にはいつも厳しくとも優しい一人の男の姿が思い浮かんでいた。
「それなら断然、ドラゴンおやじだな。お前たちも散々迷惑をかけただろ?」
「あー……」
ぽかんと口を開けたかと思えば、二人はうめき声にも似たものを漏らしながら顔を見合わせ苦笑いを浮かべた。時間にすれば一瞬だが、この二人にビッケバッケも加わって戦竜隊隊長の地位を乗っ取るために実行したのは事実なのだ。
「――そうだよな。ついでに謝らないとなあ」
「そうですね。一時の過ちとはいえ、あまりに多くの人に迷惑を……」
付き合ってやったとはいえ、迷惑を掛けられたことに違いはない。申し訳なさそうに俯いてトゥルースは何度目かの反省を口にする。だが途中で何かに気付いたのか、はっと顔を上げるとラッシュの腕を反射的に掴んだ。
「謝るにしろ労うにしろ、的確な人がいましたよラッシュ! カーナ騎士団、重斧兵団隊長――」
「あー、パスパス」
最後まで聞く気はない、とばかりにラッシュはトゥルースの口元まで手を伸ばすと、言い聞かすように口を開いた。
「マテライトだぁ? 確かにいつも説教ばっかりくれてやっておれたちからはロクに言い返せてないけどよ。そんな状況でジジイ扱いでもしようもんなら噴火するんじゃねーの?」
「カーナを取り戻した直後のこのタイミングでなら、と思ったのですが……。やはり難しいでしょうか?」
名を言わずとも、トゥルースがこういう時に回答を求める相手は一人だ。思慮深いグレーの目に込められた思いを受け止めるように目を伏せると、ビュウは小さく笑った。
「どっちの言うことも確かだな。せっかくなら前提は置いて感謝を伝えたら喜ばれると思うぞ。今ならやけに涙脆くなってるだろうしな」
それぞれの意見をまるっと肯定されて、二人は顔を見合わせてにこりと笑う。実行するかは彼ら次第だが、放っておいても大丈夫だろうと思える安心感があった。
――だからこそ、誰もが忘れているかの者の名を伝えねばならない。
さてこの話は終わり、とラッシュが椅子から立ち上がったその時、ビュウはさも忘れている人がいるかのように二人を呼び止めた。
「おいおい、二人ともこの船一番の長寿を忘れてないか? この船どころか国ごと世話になってる――」
「……あの隊長、言いにくいのですがそれは人ではないのでは」
話は聞いていたのだろうが、正解が分かってしまったのか二人は固まった表情でビュウを見ていた。ラッシュに至っては分かりやすく顔に「何言ってんだこいつ」と書いてある。
おずおずと言いだすトゥルースとは対照的に、ラッシュは表情を崩さず攻勢に転じた。
「おい、とうとうイカれちまったのかビュウ?! バハムートなんて神様だぞ神様! おれたちの立場じゃ声をかけることすらできないのを忘れてるだろ!」
驚愕に見開かれた目と、とても目上の人間にかけるとは思えない。口から唾が飛ぶ。
だが彼の言いたいことはごもっともで、これまで数々の神竜を仲間にしながら、突然バハムートだけに対して感謝を伝えようなどと言い出せばそれがビュウの個人的な感情から生まれていることは嫌というほど分かるからだ。
トゥルースもまた、いくらか冷静ではあったがついにここまで、と言いたげな、どこか冷めた目でビュウを見ていた。
「隊長のドラゴン好きも、ついにここまで……。いえ、お気持ちは分かりますが今一度冷静になられては」
「……一人で熱くなってたな、すまない。ともかくドラゴンおやじに感謝を伝えにいくつもりなら、少し経ってからの方がいいだろうな。パピーが生まれたばっかりで、どうも甲板の雰囲気がピリピリしてる。それで余計傍を離れないだろうしな」
気付けば眉間に皺を寄せていたらしいビュウは、ふと力が抜けて長めの息を吐き出した。ついで彼しか知らないドラゴン事情をさらさらと口にする様子に、二人は安心したのか口元をほころばせた。
「それでも、やっぱビュウはドラゴンバカだよな。らしいっちゃらしいけど」
「だから安心できるんですよ、ラッシュ」
「分かりました、隊長もどうか甲板に出る際はお気を付けて」
「ありがとう、それじゃ」
軽く右手を挙げて、ビュウは二人の元を去る。部屋を出て扉を閉め、廊下に誰もいないことを確認すると、ビュウは溜め込んでいたものを吐き出すように再び長い息を吐いたのだった。
「――あの調子じゃ、信じろって方が可哀相だよな」
閉めた扉をちらりと見て、ビュウはそう呟くと新鮮な空気を求めて廊下の端へと辿り着いた。開け放たれた窓からは、どこまでも続く爽やかな青い空と白い雲しか見えない。だが余計なものがないだけ、ビュウの心も静穏が訪れていた。
「……そもそもアレは本当にあったこと、なんだよな。バハムートから告白されるなんて、ドラゴンたちや……サラマンダーすらされたこともないのに。逆にこの話をしたら嫉妬されたりするのかな」
全身を穏やかな風に包まれていると、次第に自分のみに起こったおとぎ話めいた実体験に微笑んでしまう。と同時にいつもなら起こったことをぼやいてきたドラゴンたちにさえ、今回の事を明かしていない事実に気付く。話を聞いてから暫くは動揺していたのも事実だったが、直接求められなくともいつかは伝えるべき返事の存在を、自然と胸に深く刻み込んでいたからなのかもしれない。
「なら、それこそ俺から伝えなきゃいけないんだろうな。これじゃ俺もあいつらのことを言ってられないな」
マテライトの名前を前に、とんでもないと否定していたラッシュの顔が浮かんでビュウは思わずくすりと笑った。もしかしたら今この瞬間すらバハムートに見られているのではないかという疑問がふと頭をかすめたが、その場で頭を振って否定した。
「……そこまで都合のいい存在じゃないもんな。……よし」
自分を納得させるように大きく頷くと、ビュウは深呼吸をしてから窓を離れた。もちろん向かう先は決まっている。現在のバハムートの宿主にして、唯一彼の心を受け入れられる者のいる私室へだ。
「さすがにこの真っ昼間からよろしく過ごしてたらさすがに怒る権利くらいはあるよな……?」
相変わらず静かな廊下を歩きながら、ビュウは誰にともなく許可を取る。というよりそれはビュウの一心からでた願いのようなものでもあった。何もやっと想いの通じ合った男との逢瀬を邪魔したいのではない。めまぐるしい環境の変化に振り回されてきた彼が、ここに来てはっちゃけていないのかが心配だったのだ。
自分にも多少は言葉を挟む余地があるはずだ、と二三度頷く頃にビュウは廊下を折れ、ヨヨの私室へ続く階段を私室の扉まで後数歩というところまで上っていた。こつこつという靴の音はわざわざ忍ばせる必要はない。靴の音の合間に、特に慌てふためく物音は聞こえない。
「……よし。ヨヨ、俺だ」
ただのデザインとしか思えない大きさのノッカーを軽く叩いて数秒、小気味よい靴の音がビュウの耳に届いた。扉の厚さからしてとても声が届いたとは思えないが、迷い無く向かってくる靴の音をビュウは静かに待っていた。
そもそもがヨヨ個人へ用事があるときは艦内の伝令管を使う決まりがいつの間に出来ていた。誰が決めたかすら分からないものだったが皆がそれに従い、そもそもそれ自体を使う人物は限られているのでこの規則を共有する意味はあるのかと幾度となく思ったものだ。
こっこっ、こっ。
ギイ、と小さな軋みとともに、ためらいなくドアが開かれる。どうやら中は何事も無かったようだ、とビュウが胸をなで下ろすより早く、現れた部屋の主は彼の顔を確認すると安心したように微笑むと残りを押し広げるように開いた。その扉をビュウが入れ違いのように片手で支えるのを見て、ヨヨは手を放して一歩引き下がった。
「ビュウじゃない。どうしたの?」
「なんだ、分かってるわけじゃないのか」
「いきなり何を言ってるの? と思ったけど、もしかしてバハムート……」
前置きも無く開口一番に投げかけられた質問にヨヨは呆れたように腰に手をやり溜息をついた。深く知った仲とはいえ、さすがに今回は彼女にとっても理解に苦しむ展開のようだ。
――だが、やはりビュウのことだ。ふと頭をかすめた出来事を言い終えるより、彼の妙に焦った声が遮った。
「そのバハムートだ。頼む、これ以上何も聞かずに対話させて欲しい」
「私だって、何も当てずっぽうで名前を出したわけじゃないんだけど……」
やけに真剣なビュウの面持ちに、ヨヨは少し面食らったのか目を丸くする。だがこの妙な状況に気圧されることもなく、彼女は場の空気を楽しむように含み笑いなどしながら言葉を紡ぐ。そしてくるりと背を向け部屋へ入って行ったかと思うと、改めてビュウに向き直って小さく頷いた。
「……どういうことだ?」
とりあえず許可は下りたらしい。だが続いて出たヨヨの言葉に、部屋に入ったビュウの口から言葉が絶える番だった。
「聞いたわけじゃないのよ、向こうから言ってきたんだから。「ビュウはやはりお前の思っている通りの男だった」って」
「……バハムートが?」
絞り出すようなビュウの声に、ヨヨは少し困ったような顔で頷いた。
突然前置きも無くそう言われれば、さすがのヨヨも困惑するに違いない。いつかこうして伝える事を念頭に置いていたとするなら、すべてはバハムートの手のひらの上なのかもしれない。
「そうよ、ただそれだけ。だから本当は根掘り葉掘り聞き出したいところだけど、私はただの仲介者の立場である方が良さそうね。ほらバルコニーに上がってちょうだい、喚んだら私は下に戻るけど、あんまり長居はしないでね」
「ありがとう、助かるよ」
「……ヨヨ?! どういうつもりで」
契約者として、とりあえずヨヨはその場にいる必要があるようだ。先導して歩きながら、ヨヨは好奇心を抑えられない様子でそう言い切るとバルコニーへと続く階段を上り始める。そんな彼女を目視したからか、ここに来て事の重大さを理解したからなのか。集中力を遮らないようにと置かれた木製のパーテーションから、パルパレオスが勢い余って飛び出しそうな姿で現れた。
「大丈夫、今調子はいいから。それにあなたなら分かってくれると思うの、機会がないと会話すらできない二人の心がどれだけつらいことか」
「…………そうか、それならいい。ビュウ」
ヨヨの言葉を咀嚼するのにかかった時間が、そのまま沈黙となり場を支配する。だが俯いた顔を上げたパルパレオスの表情はなんとも複雑で、困惑しているのは手に取るように分かった。
「なんだ?」
「あまりヨヨに負担をかけるなよ」
視線が合う。未だ困惑の色に染まった彼の目を見つめて、ビュウの口元は自然と微笑んでいた。意味ありげにゆっくりと口を開く。
「ああ、心配しないでくれ。少しだけ借りるぞ」
ガタガタン!
「ビュウ?! お前という男は――」
この瞬間、どれだけ口角が上がったかビュウ本人にも分からない。だがパルパレオスの驚きぶりはもの凄く、思わずパーテーションを蹴り倒してしまいそうになるほどだ。慌てふためき手に持った本すら取り落とし、ビュウとヨヨの顔を交互に見つめるのが今の精一杯らしい。
「……もう、あんまり意地悪を言わないであげて、ビュウ。この人ほど冗談が通じない人を探すのは大変なんだから」
一方でヨヨはこの展開が面白かったのか、くすくすと笑いを零しながらもパルパレオスを宥めるような穏やかな声色で語りかけた。
「――分かった。無理だけはしないでくれよ」
ヨヨからそう言われた以上引き下がるしかないのか、パルパレオスは僅かに眉間に皺を寄せながらもその視線は彼女ただ一人へと向けられていた。当のヨヨは大きく頷くとそっとビュウの背中を押す。押されるままビュウの視界から彼が消えても、パルパレオスはただただヨヨを見つめていたのだった。
ファーレンハイトの仲で一番空が近い場所と言われるだけあって、バルコニーは遮る者もなく風が気持ちいい。その風が、未知の関係を後押しをしてくれているようにビュウには感じられた。
それでもパルパレオスを冗談めかして笑った直後とはいえ、緊張が完全にほぐれた訳ではない。その最後の一押しをするように、背中をヨヨの手は軽く叩いた。
「……そういうわけだから、私はすぐに戻らなきゃ。後は二人で楽しんで」
「ああ、手間をかけるよ。後で自分都合で喚ばないように言っておくからさ」
花のようにふわりとほころぶ笑顔に、ビュウもまたつられて笑う。抱えていたはずの緊張がこうして一瞬にしてほぐれるのも、自分よりもっと多くを抱えて悩んできたはずの彼女の優しさのお陰なのかもしれない。
「ふふ、いつの間にそんな関係になったのかしら?」
ビュウの冗談にまたくすぐったそうに笑うと、ヨヨは手指の動きでバルコニーの中央へ立つように指示をする。従うビュウの隣に立ち、祈るように膝を折った彼女が10も数えないうちに空が一瞬暗くなり、かと思うとそこから雲が裂けた場所から瞼に焼き付くほどの閃光が走った。鼓膜をつんざく轟音が辺りを支配し、ぼやけた視界がやっと色を取り戻し始めた頃、そこにいた気配は確かに命の熱を持ってビュウに相対していた。
「……………………」
「――バハムート」
一声を発するだけでも、ビュウの喉はひりつくような緊張感に襲われていた。普段なら腹に響くほどのエンジン音も耳に届かず、代わりに彼を包んでいたのは鼓膜が痛くなるほどの静寂だった。
「ビュウ」
「…………!」
不意に肩を叩かれて振り向くと、そこにはヨヨがにこやかに微笑んでいた。目の前のものに意識を奪われていて、そもそも彼が彼女によって召喚されていたのだという事実すら忘れるほどの衝撃を受けていたらしい。
そんな感想が表情に出ていたのか、神竜を呼び出した直後だろうにヨヨはくすりと笑いをこぼした。
「うん、大丈夫みたい。ビュウ、あまり無理はしないでね?」
「そうさせて、もらうよ」
想像以上に体にダメージが言っているのか、ビュウの声は掠れていた。絞り出すように声を出してビュウは頷く。息切れを起こしていたらしく、よほど彼女の言う大丈夫とは調子が違うが、身の上の経験で言えば倒れないだけマシなのかもしれない。
頑張ってね、と表情を作ったヨヨが小さく頷きスカートの裾を翻す。その背中を見送りながらも、ビュウは自身にじりじりと焼き付くような視線を感じずにはいられなかった。
「――来たか」
「……やっぱり、あれは夢でも幻でもなかったんだな」
バハムートが口を開く。煮詰まった鍋の蓋を開けたが如く、一斉に白い湯気が立ちのぼり、一瞬ビュウの視界をかき消した。ただ3文字、確かに喋ったはずなのだが、その音声は不思議と鼓膜を震わせることはなかった。
思えば、これが神竜と確かな意識の中で話す初めての機会だ。未だにうるさい心臓の音を宥めながら、ビュウは身の上に起こった不運を溜息交じりに吐き出した。
「――はは、身を案じるか」
以外にも、バハムートから返ってきたのは状況を楽しんでいるかのような一笑だった。だが相変わらず、立ち上がる湯気が揺らめくことはない。やがて風に流れるまま幕が流れると、ビュウの視界を埋め尽くしたのは年月を経た岩のようなバハムートの綴じられた口元だった。
「……?!」
距離はまさに、目と鼻の先。
起こった出来事に対応しきれず、ビュウはただただ狼狽える。ただバハムートの目は、展開を予想できていたのか僅かに欠けていた。
「だが、あの状況を一番に楽しんでいたのは他でもないお前ではないか。未来の空、阻むもののない風――。誰よりもあの空を望んでいるからこそ、私はお前に見せたのだ」
「俺に……未来の空を……」
物言わぬ口から、とても神とは思えないほどすらすらと言葉がビュウの脳に飛び込んでくる。ただただ呆けて言葉を繰り返すばかりのビュウの目は、疑念を含んで少しずつバハムートの口を開かせていた。
目は口ほどに物を言う、という。果たして人の心を読むとさえされる神竜にどこまで有効かは分からなくとも、その視線は確かにバハムートの月の輝きを思わせる目に辿り着いた。
暗闇でいっそう強く輝く、美しく丸い月。
それがすうっと欠けていく。三日月のように細まったと思いきや、相変わらず見とれているビュウの感覚に、思わぬ言葉が飛び込んできた。
「それに、お前には必要なものがあるだろう。ドラゴンの背にその身を預け、一体となり空を駆けるその姿。その横顔の、何と楽しそうなことよ」
「――見てたのか?!」
敬語も忘れ、ビュウは叫び絶句した。とっさに周囲を確認して胸をなで下ろし見上げたその時になって初めて、細められた目の意味を知ることになるとは。
バハムートは、カーナの守護神と崇められる存在は、今こうして一個人の趣味を明かして楽しんでいることに。
「いつから、などと詮索する必要はない。長い事私の意識は動かぬ肉体の奥底で眠っていたのだからな。ただ収まるべき場所に入って初めて、この場所で人間が一つの目標に向かおうという意識を感じ取った。そして同時に、ドラゴンたちの喜びの声が聞こえたのだ。その意識を追って、お前に行き着いた。それだけだ」
「それだけ、ってなあ……」
困った、と頭を掻きながらビュウは苦笑いを浮かべた。ヨヨからずいぶん前に、神竜が意識や感情を読み取っていると打ち明けられたことはある。だがまさか、取り憑いた当人以外のものまで感情まで読めるとは聞いていない。
「ヨヨには……」
「教えていたとしたら?」
もはや目の前の存在が神だという畏れをかなぐり捨てても、ビュウは真実を確かめたくなった。
――とはいえ、彼には確信があった。それもお見通しとばかりにバハムートの口から歯が覗いた。一本一本が鈍く輝き、ぬらりと光る唾液。
「……もし知ったとて、彼女が口を割ることはないだろうな」
「そうなんだよな、知ってたんだけどなんで聞いたんだ俺……。分かった、信じるよ」
友人にでも相対するようにひらひらと右手を振ると、ビュウはそれを力なく垂らして何度目かの溜息をついた。だが不思議と嫌な気はしない。バハムートの絶対的存在を信じているわけではない。彼の人間じみた所作が、ビュウからドラゴンに感じていた不足に感じていたものを、心に惹きつけたたのだ。
こんな面白い存在が、自分を名指しで共にありたいと言っている。
それはビュウに、今この場で告白を返すには十二分すぎる条件だった。
「信じるよ、バハムート。だからこの戦争が終わるまでは、俺の意識を読まないでもらえないか?」
「――何を」
空が静まりかえる。バハムートの動きが止まる。ただ、再び光を取り戻した丸い月は、感情に振られるまま揺れていた。返答のために現れた彼から、注文が来るとは思わなかったのだ。
迂闊。バハムートの脳裏に2文字が浮かぶ。神と崇められる彼も含めて、神竜は何も無意識下で常時人の意識を読み弄んでいるわけではない。そうでもしないと無駄にエネルギーを使ってしまうのは人間と一緒なのだ。
「そうしてもらえないと、これから先の俺の判断が鈍りそうだからな。頼めるか」
あくまでも真摯な一対の目が、静かにバハムートに向けられている。その揺るぎなき瞳を見つめ返しながら、改めてバハムートはおのれの能力に対する過信を恥じた。
人の心を読むのは、単なる興味か読まれた人間が心を乱された様子を楽しみたい時だ。
だからこそ、目の前の存在の心を読む必要がなかったのだとも言える。
「――そこまで言うのなら」
バハムートの口調は重かった。だが言葉の持つ意味を、ビュウは単に了解と受け取ったのだろう。ぱっと目を輝かせると、小さく胸をなで下ろす。心の余裕は笑顔となって、彼の表情を綻ばせた。
「ありがとう、助かる。それじゃヨヨを待たせてるから――」
「ああ、そうだったな」
何気ない表情も、面と向き合って出されたものなら話は別だ。今の宿主の名前が出たことに少々の苛立ちすら感じながら、バハムートは僅かに目を伏せ、そしてしっかりとビュウを見据えた。
「次に会う時を楽しみにしているぞ。――生きろ、ビュウ」
「……ああ」
ただそれだけを返すとビュウは深く頷いて、その場でくるりと踵を返す。ただの一度さえも振り返らないその背中を見送りながら、バハムートの意識はゆっくりとぼやけていった。
そして後に残されたのは、いつもの風も穏やかなオレルスの空。
未来へと続く雲の流れを追いながら、ファーレンハイトは北へと舳先を進めるのだった。
敬うべき神は
老人といえば……まあセンダックなんですが、毎年のネタすぎて捻ってみました。
そうしたらこうなった。年齢的には誰も超えられないし人間の感情にまで影響が及んでいる以上逆に伝える事はできるよね~と。
ビュウもいつの間にあの告白に答えたんだ? という疑問もあったので一緒にしてみました。こういう関係であって欲しい……!
2022/9/19 付