Novel / たまには、君とこの場所で


この男の突然の提案には、いつも振り回されてばかりだ。
少し風の冷たい穏やかな昼下がり、洗濯物を干していたはずの彼から声が掛かった。

「ホーネット、ちょっと」
「どうした、仕事が早いな」
「くくう!」
来い来い、と手招きをする彼の元へ早く行きたくて、ホーネットは側で戯れていたパピーの肌を軽く叩く。行くぞ、の合図だ。
今や半分彼の持ち物になっているファーレンハイトの甲板は、声を一つ届けるにも声量がなければ風に流されてしまうし、ちょっとした移動ならドラゴンに乗った方が圧倒的に早い。
それにパピーは、本来ならカーナ戦竜隊に戻されるはずが、自分が親だからという理由をごねて何とか手元で育てることを許された、目に入れても痛くない可愛い可愛い愛娘だ。
その決定を最終的に下したのがもう一人の親である彼なのだから、揉めたことすら台本だったのかもしれない。
今となっては、二人の間で笑い話になっているくらいだ。

ひらひら、ふるふる。
「……俺だけ来いって?」
予想外の手の動きに、ホーネットの表情から笑顔が消える。自然と寄る眉間の皺を誤魔化すように右手で揉み消すと、すっかりその気のパピーへ向き直った。
「ごめんな、少し遊んでいてくれるか?」
「くるるぅ、く!」
弾んでいた手で優しく撫で直しながら、ホーネットはパピーに語りかける。少しの間を置いて、パピーはふるふると体を震わせてその場を飛び立った。
船は泊まっているし、周囲には名もない岩礁がいくつも浮かんでいる。遊ぶには事欠かないだろう、とパピーの背中から視線を外し、ホーネットの足先はやっと男の元へと向いたのだった。

「ずいぶんとパピーにご執心みたいだな」
籠に山盛りの洗濯物を傍らに、甲板に伸び伸びと投げ出した男の姿。加えて煽り半分で発せられる呑気な言葉に、ホーネットはたまらず右手に握ったタオルを男に向かって投げつけた。
「それが分かっていて、そういうご用件なんだ。ビュウさんよ」
ぺちゃ、ずるり。
たっぷりの水分を含んだそれが、狙った通りビュウの頬に張り付きずり落ちる。石鹸の香りに包まれた彼に申し訳ないと多少は思うが、パピーのヨダレの匂いを嗅げば少しは自分の行いを反省するだろう。
――そこでまさか、悲しげに笑いかけてくるとは思いもせずに。
「用がなきゃ、俺の隣にはいたくないのか」
「そうじゃ、っなくて」
影の差した青い瞳に、思わず言葉が喉に引っかかる。
感情をむき出しに焦る様子に少しは調子を良くしたのか、続きを遮るように落ちたタオルを拾い上げて背面へと避けると、ビュウはその場所を撫でながら視線を上げた。
「いいから、ほら」
「……座ればいいんだよな?」
優しくも、やはりどこか訴えるような視線に言葉を呑んで、ホーネットはビュウの言われるまま彼の隣に腰を下ろしたのだった。

「なあ、ホーネット」
前を向いたまま、ビュウは穏やかにそう切り出した。小さく頷くホーネットの回答を待たずに、彼はさも当たり前のように言葉を続ける。
「明日は晴れると思う?」
「……え? あ、あー……」
青い風に吹かれるビュウのトレードマークでもあるスカーフ。爽やかな横顔が何を考えているのかは相変わらず分からない。だが突然のことに言い淀みながらも、ホーネットは果てしなく続く空の向こうに雨雲がない事を確認するとビュウへ視線を戻した。
「きっと晴れるぞ、何を心配してるのかと思ったら洗濯物のことか、俺は」
「……二人きりでデートをできないか、ってずっと思ってたんだ。それに」
何かと世話を焼いてくれるビュウへ感謝の意味を込めた、ホーネットの笑みは彼の返答に二重の意味で固まった。驚愕に見開かれた瞳をちらりと見やった、ビュウの口元は僅かに微笑みを湛えている。
「ホーネットも気付いただろ? こうして用があるときにしか名前を呼んでないなって」
「……俺も悪かった。ただ、てっきり説教してくるのかと思ったから面食らってるんだぞ、これでもな」
小さく下げた頭を上げながら、ホーネットはできうる限りの反省の意をビュウに伝える。付かず離れずの生活を続けてきた二人だからこそ、思いは言葉にして伝えるべきだ。
――その結果が今なのだろうと気付くには、多少遅かったようだが。
「その顔を見られただけで良し、ってところだな」
だがビュウはそれ以上話を広げることはなく、ホーネットの顔を舐めるように見ている。向けられた笑顔の意味を深掘りしたら、余計ビュウに美味しい餌をあげることに等しい。
その事実に気付いたホーネットは、ともかく険悪な午後を過ごさずに済むことに安堵の息を吐いた。
「ともかく、だ。俺の顔で遊ぶのには満足してくれただろ? それじゃ――」
ふっ、と笑うと、それを合図に彼は顔をビュウから背けて肘を曲げる。もちろんそれはパピーを呼ぶための口笛を吹くための動作だったが、いつまで経っても軽やかな音が風にながれることはなかった。

「それにパピーを置いていく訳にはいかないだろ? 俺なりに考えてるんだからな」
腕を掴むビュウの手。そのために伸ばされた腕と、大きく傾いた体はホーネットにもたれるように重なっている。
「……………………」
ここぞとばかりに顔を近づけ、唇を奪う。興味の逸れた腕が力なく芝を撫でても、二人はしばらくその場から離れなかった。
「――こういうことか?」
「これも用事のうちじゃなかったのか」
そう言いながらビュウは笑って顔を離す。柔らかな唇に残った熱を追うホーネットの視線が、やがて中天に向いている違和感を覚えるころにはすべてが終わっているようだった。
「……ん、なあビュウ」
「どうした、タオルでも掛けるか?」
すでにその気なのだろう、輪を掛けて笑顔のビュウの手にはバスタオルが握られていた。太陽のぬくもりをたっぷり吸ったそれより表情に吸い寄せられているホーネットに、もちろん拒否などできるはずもない。
「子供の昼寝じゃあるまいし」
「世話くらい焼かせてくれよ。――それに、結構恥ずかしいんだからな」
なんとか口から出た文句をあっさり返して、ビュウはくすりと微笑んだ。
そんな彼の照れ隠しを後押しするように、ホーネットの視界をタオルがふわりと遮る。それを取り上げビュウを押し倒すことを脳裏に浮かべたホーネットだったが、彼の好意を汲むべきだと伸ばしかけた腕を再び地面へと伸ばした。
「へえ、膝枕がか。 ……言われてみればやったことがなかったな」
「だろ? 二人きりの時間で出来ること、なんて考えても案外浮かばないもんだよ」
ビュウの膝に頭を預けて、ホーネットはまだ始まったばかりの二人の関係を振り返った。時折ちかちかと眩しい太陽の光を避けようと顔を動かすと、分かっているのかビュウの顔が視界を覆うように近づいてくる。
「しょうもないことかもしれないけど、俺はこれでいいと思ってる。ホーネットには物足りないんだろうけどな。だろ?」
「そうだな――」
逆光で陰る、ビュウの笑顔がそれでも愛おしい。だからこそ、そんな彼の様々な表情が見たいホーネットの口の端は、自然と上がっていたのだった。
「ろくに旅行らしい旅行も行けてないしな。戦時中の方が二人で抜け出す時間があった、なんてとんだ笑い話だぜ」
「確かにな。でもわざわざ二人でなんて、行きたい場所でもあるのか?」
くしゃりと笑って、ビュウは顔に掛かった髪を除ける。そしてわずかに太陽に晒した瞳のきらめきが、好奇心を持ってホーネットに注がれた。
意識させるなら今しかない。
ホーネットはいつも悪戯の種明かしをする際の表情で口を開いた。

「二人だからこそ意味があるんだろ? せっかくの新婚なんだからな」
「ああ――」
呆れるように笑うビュウの、小気味よい声にホーネットもつられて笑う。邪魔をする者は誰もいない。世間的に見たらただの親友である、二人きりの時間がここにはあった。
「籍も入れてないのにか」
「入れられるなら、あの面々の前で求婚してたさ」
「やりかねないな、ホーネットなら」
至極当然とばかりに返すホーネットがよほどおかしいのか、ビュウはもはや笑うことを隠そうともしない。すぐさま混乱に陥るであろうかつての仲間たちの表情が脳裏に浮かび、二人の笑い声は輪を描きながら空に響いたのだった。

気付けばビュウの目尻に涙が浮かんでいた。これほど笑う彼を見たのはいつぶりだろうと思いつつ、ホーネットは掛けられたタオルでそっとそれを拭う。
「――はあ、笑った笑った」
「ずいぶんお疲れだったみだいたな」
「……バハムートの耳に入らなくて良かったな」
「んっ」
輝くビュウの笑顔から、意味ありげに囁かれた一人の名前。それに一瞬で肝が冷えたホーネットは口を詰まらせる。その反応すら楽しそうに見ている彼こそ、この世界の守護者であり最強たる神の竜に選ばれた唯一の乗り手なのだ。
「そんな青い顔しないでくれよ。あっちも契約を形で残してないんだからな」
「一緒にされたら、それこそ世界を跨いで雷が落ちてきそうだぜ」
比べるもののないほど温かいはずのビュウの膝の上で、ホーネットはぶるりと身震いする。そんな彼の恐ろしい想像をかき消すように、ビュウは穏やかに笑って髪を手ぐしにかけ始めた。
地面に流れる銀糸を一本一本確かめるように流しながら放った彼の言葉に、たまらずホーネットは身を起こしたのだった。
「もし、次に変化があったとしたら、それこそ世界がひっくり返った時くらいだな」
「笑顔で済まないことを言わないでくれ!」
「――冗談だ」
青空に映える、笑顔がこれほど恐ろしいとは。まぶしさから逃れる振りをして視線を逸らした横顔に、ビュウの温かな指先が添えられる。
「大丈夫だ、この関係に口は挟ませないからな」
「ぜひそうしてくれ」
さわさわと額を撫でる指先が、誘うようにくすぐってくる。ついに負けて戻した視線の先で、ビュウはこのどこまでも青い空のように柔らかく微笑んでいたのだった。
たまには、君とこの場所で
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いい夫婦の日だから、というわけで今年は?ホネビュウ。
たまには夫婦水入らずでいたいよね~と思いつつ、特別なことはしなくていいんじゃない? と言いたいビュウが自分から誘うおはなしでした。

2022/11/22 付



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