Novel / 伝える声は雨に濡れても



「そこで待つのかな。何なら上がっていくかい?」
「ううん、おむかえがくるからだいじょうぶ!」
心配でかけた声を跳ね返すように、明るい笑顔で少年は答えた。それならば、と果物屋の店主は中へと勧めるために伸ばした手を引っ込め頭をかいた。
「そうか。早くお迎えが来るといいね」
「うん! おじさんありがとう!」
笑顔でそうやりとりをこなすと、店主は少年と店の外とを見比べておとなしく店の奥へと引っ込んでいった。この天気ではしばらく客も訪れそうにないだろう。
一方残された少年は、店主が先を見越して軒先から片づけた商品棚の場所を自然と間借りしていた。籠いっぱいに入ったリンゴを地面に置いて、目の前を忙しなく通り過ぎていく人々を眺めている。

雨はしばらく止みそうになかった。

「……うーん、まだかな」
退屈をしのぐものがないせいで、小さな手を揉みながら少年はつぶやく。だが石畳を強く打つ雨脚は思ったより強く、少年の声は出すと同時に飲み込まれてしまった。

カーナに恵みの雨が降る季節がやってきていた。
ただ緩やかな雨が続くというよりは、集中的に雨が日を置いて降り注ぐのが特徴だ。
なので人々にとって、朝の空を眺めて予想を立てて傘を持ち歩くかどうかは今の季節には欠かせない日課だった。
だが少年は、お使いを頼まれた喜びのまま家を飛び出して――
――そして今に至る、というわけだ。

「……ママ、しんぱいしてるかな」
心配性の母親が、天気の心配をしないはずがない。過去何度も呼び止められては世話を焼かれた母親に対する小さな罪悪感が、少年の口からため息となってこぼれる。
どうして傘を持ってこなかったのかと言われればそれまでなのだが、そんな小さな心配も帰りを待つ兄貴分と一緒に食べる喜びには勝てなかったのだから仕方ない。
「きてくれる、よね……?」
どちらが来るとも限らない不安定な状況の中で、少年は膝の上で組んだ両手に力を入れていた。

ざあざあ、ざあざあ。
相変わらずの雨の勢いと比例して、道行く人々の数はまばらになっていた。軒下にぴんと張られた日差しよけのテントが弾く絶え間ない音に耳を傾けていると、嫌なもののはずなのに自然と意識を持って行かれそうになる。
「んー……」
眠気から逃れようと何度目かの伸びを少年がした、その半分ぼやけた視界の向こう。大小二つの長靴が、こちらに向けられていることに初めて気付いた。いつからそこにいるのだろう?
「――ねえ、君なにしてるの?」
「ぼく?」
「うん。そこ、お店でしょ?」
軒先から垂れる雨を傘で弾きながら、少年は不思議そうに小首をかしげる。さらに何かを言いかけるが、隣に立つ母親が肩に手を置いたことで諦めてしまったようだ。
年頃は自分と同じくらいだろうか。金の髪に青い目、というカーナでは標準的な見た目の彼は、少年の足下に置かれた籠と顔とに目をやる。
「……えへへ。かさ、わすれちゃったんだ」
「そっかあ。……ダメ?」
気恥ずかしさを誤魔化すように笑う姿に、少年は不思議と安堵の表情を浮かべる。そのままおずおずと自分の傘を差しだしかけて、上目遣いで母親を見上げた。言葉はなくとも、引き留められているのは一目見て分かった。
「お迎え、来るのよね?」
「うん。おうち、すこしとおいんだ」
迎えが来ない理由を自分に言い聞かせているような口ぶりに、母親の顔は少し曇った。だがそう言う以上、他人の世話を焼く理由も彼女にはないのだろう、肩に置いた手を下ろすと少年へと向ける。
「ほら、分かったわね。帰るわよ」
優しくも厳しい母親の口調に倣って、少年は傘の持ち手を握り直した。強くなるばかりの雨に口調も沈むが、心に思ったままの言葉をつとめて明るく口にする。
「うん。……おむかえ、早く来るといいね」
「うん、ありがとう。またね!」
「……?」
予想外の返事に少年は数秒固まったが、しびれを切らした母親に手を繋がれ歩き出した。そんな彼の姿が視界から消えるまで、男の子は笑顔で手を振ったのだった。

「う……ん」
いつの間に眠ってしまっていたらしい。はっと顔を上げた彼の耳が捉えたのは、雨とはまた違う腹に響く重低音だった。
ごろごろという音が辺りに転がるように広がっていく。ほぼ本能的に目を閉じ耳を塞いだ少年だったが、ゆっくり10を数えても雷光が瞼に閃くことはなかった。
「あれ?」
降って湧いた恐怖にすっかり目が覚めた少年は、興味のまま自身の拘束を解くと軒の端からおそるおそる空を見上げた。
雨は黒く重い雲から絶えず白糸を伸ばし、いつしか町全体が吊り上げられてしまうのではという不安を少年の心に植え付ける。そうでなくても人通りのすっかり無くなった灰色の町は、一人取り残された彼にとって恐ろしい以外の何物でもなかった。
「パパ……ママ……」
さっと血の気が少年の顔から引いていた。青白い顔で両親に縋るように手を合わせて声をあげても、雨はその思いをあざ笑う。辺りが冷え込んでいく中でただ一つ熱いのは、じわりと滲む涙を浮かべた両の目だった。

「きゃううー!」
「……えっ?」
灰色の石畳から空へ誘われるように、少年は顔を上げた。涙で滲んだ目に雨のほどは分からなかったが、その耳は確かに翼のある兄弟分の声を聞いていた。
「どこ? どこなの? ぼくはここだよ!」
期待と不安でいっぱいの胸を抱えて、少年はたまらず軒下を飛び出し両手を掲げた。シャワーのように全身に雨が降り注いでも、彼は構わずいるはずの存在に向かって声を上げ続ける。
「ぼくはここだよ、サラマンダー!」
「きゃあうう!」
名前を呼んだその時、彼の視界を鮮やかな赤が通り過ぎた。すっかり濡れたせいか流線形になってもなお、翼あるその生き物は雨のことなどなかったかのように数度鳴きながら空中でくるりと方向転換をする。
そうしてゆっくり少年の前へ翼を下ろしたそれは、顔を下ろすとエメラルドグリーン色の瞳で彼をしっとりと見つめた。
「きゃふふ……」
「サラマンダー……!」
心配そうに見下ろすサラマンダーの顔に、少年は息を詰まらせると飛びつき両手を回した。幼いとはいえ、それでもとても指先は届きそうにない。すっかり濡れた顔をぴたりと寄せて、少年はサラマンダーを愛おしそうに見上げる。
「ぎゃふーふ」
「うん、うん、ぼくまってたの」
「ぐふふ……」
「だってね、かさをわすれちゃったから……」
会話が成立するのが当たり前であるかのような二人のやりとり。低く唸るような声に、少年は抱く力を緩めておずおずと答える。同時に鳥のような三角の鼻梁からずり落ちた彼の体は、安心からか石畳に降り立つ力をすっかり失っていた。
「うぅ……」
ついで体から力が抜け、少年はずるずると石畳に崩れ落ちる。その様子に目を見開いたサラマンダーが鼻先で彼の体を支えようとしたその時、冷たく濡れたそれは彼の頬の熱さを初めて感じ取ったのだった。
「ぐぐう、ぐふふ……」
色の消えた街路に立ちのぼる、ミルク色をした一筋の煙。その根元に手を添えた少年の顔には笑顔が戻り、かすかに震える指先にもいつしか温もりを取り戻していたのだった。
「えへへ、ありがとう」
ほんの少しの逡巡の後で、サラマンダーは少年の体を自分の翼の下へと押し込んだ。されるがままの少年は、赤らんだ頬で花のように笑ってゆっくり立ち上がる。
どうやらまだ元気はあるらしい。迎えが間に合ったことを喜ぶサラマンダーの鼻からは、再びもくもくと煙が立ちのぼったのだった。

「ぐふーふ」
「そうだよね、かえらなきゃ!」
ママもまってるしね、と言葉を継ぎ足しながら、少年は自ら翼の下を出るとゆっくりと頭を上げた。そこにあるのは、睫毛に雨粒を飾ったサラマンダーの大きな瞳だ。春の新緑を思わせる鮮やかな緑の目は、緩い瞬きをした後でわずかに視線を逸らした。
「あっ、めをずらしちゃだめなんだよ! ぼくの――」
サラマンダーが隣にいれば、どんな場所でもたちどころに少年の遊び場になる。にわかに元気を取り戻した少年の声は、不満の色を滲ませた彼の声に遮られた。
「ぐーふ」
「……ちがうの?」
一転、きょとんとする少年の視線を誘導するかのように、サラマンダーは再び視線を彼の背面へと動かす。追従するように少年の屋根になっていた翼を地面へ下ろしたところで、彼は再び喉を鳴らした。
「…………ぐう?」
「あ……!」
思い出したように口を開いたかと思うと、少年は手元をもじもじさせ始めた。そもそもサラマンダーは自分を迎えにきたわけで、そのためにはまずその背に乗らなければならない。そして身長の足らない少年は、どこから上がるにしても翼を足掛かりにしなければいけないことを、サラマンダーが誘導してくれるまですっかり浮かれて忘れていたのだ。
途端に少年を気恥ずかしさが襲った。この状況すら自分の忘れ物が原因なのだと思い返すと、普段なら簡単に言える謝罪の言葉も喉に詰まってしまって息苦しい。
沈黙を、降り注ぐ雨が埋めていく。まあるい青の目は、緩い瞬きをしながらもサラマンダーから決して外れようとはしない。射貫かれたような気持ちで彼はそれを見返した。
「あのね、あのね――」
相も変わらず小さな手を揉みながら、少年は口を開く。僅かに伏せられた目が再び開かれた時、雨に濡れた睫毛と潤んだ瞳に不思議な色気を含んでいた。
ぐっと息を呑み、一気に吐き出すと同時に少年はほんの少しだけ、つま先を上げる。
「ありがとうサラマンダー……だいすき!」
瞬間、サラマンダーの視界が少年の体で覆われる。と同時に瞼に感じたものは、確かに彼の思いの籠もった口づけだった。
時間にして僅か数秒。それでも二人にとっては十分すぎる行為だ。
「うきゃふふ!」
「うわあ! えへ、くすぐったいよー!」
もちろん、されるばかりのサラマンダーではない。再び視線の合った少年は喜びを顔中に出して笑う。そこを逃さず厚く柔らかな舌で、彼の頬を舐めるのを忘れない。
ぬらりとしたくすぐったさに、思わず少年は身をよじりながらたまらず笑い出す。そんな彼の後ろに存在を忘れられた赤い果実が、籠から主張するように転がり出ていた。
「きゃふふー?」
「……あっ?! わすれてた!」
ひとしきり笑った少年の前に口先で咥えたりんごを差し出すと、彼はやっとそれを思い出したらしい。りんごを受け取るりわたわたと慌てながら、彼は籠にリンゴを詰め始めた。
少しの喜びが苦労も寂しさも吹き飛んでしまう。そんな単純な少年の後ろ姿を眺めながら、サラマンダーは彼への愛おしさをいっそう強く感じると同時に協力の必要性を思い直したのだった。

重く連綿と続く灰色の雲の間から、雨は絶え間なく降り注ぐ。だがサラマンダーはその視界の端から、青空が果てしなく続いていることを知っている。両手で籠を持ちよたよたと歩いてくる少年を優しく迎え入れながら、彼は誰よりもいち早く少年を乗せて飛んでいきたいという想いで大きく翼を広げたのだった。


伝える声は雨に濡れても


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伝える声は雨に濡れても
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幼少ビュウとサラマンダー。雨宿りのシチュエーションだけで何本書いてるんだろうね。雨が多くなると書きたくなるらしいです。
おっちょこちょい少年と頼れる兄貴分(人外)って良くないですか??
2022/08/27



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