「で、いつまで油を売ってるつもりだ?」
「この空が白むまで、かな」
ため息交じりに肩越しにかけた言葉は、かすかに残る白い息と悪気のない笑顔とともに返されたのだった。
ファーレンハイト、ホーネットの私室。
静かに時を刻む時計の短針は2を指しているが、部屋の浮かび上がるような明るさとは対照的に空はただ暗闇のさなかにあった。いや、実際はその逆なのだが。
何度言っても聞かない彼が窓を僅かに開けるせいで、この時期の冷たい夜風がカーテンを巻き込んで男の長髪を撫でた。
「それまでずっと開けてるつもりか? 寒さでグラスを落としたらどうする」
「そんなことを言って、どうせ意地でも離さないだろ? ホーネットのことなんだし」
冗談に冗談をきっちり返されて、二人はそれを合図のように互いに持っていたグラスの口をかちりと合わせた。
「素晴らしい星空に、乾杯」
男の音頭に調子を合わせつつ、飲み始めてから何度行われたか分からない乾杯の合図。ホーネットはすかさず目の前の男の顔色を伺い、この茶番を切り上げるタイミングを計ることにした。
いつもより赤く染まった男の頬と、多弁が酒の進み具合を如実に表している。そうでなくても深い空の青を映した瞳孔が普段よりはっきり見えるせいで、抱いた計画が簡単に崩れてしまいそうだ。
「――どうした? そんなに巡回を交代したかったのか」
言いながらにこにこ笑うと、男は空いた手で振り向くことなく背後を指した。その先にあるのはいつも二人が酒を囲むテーブルの上に放置しているオイルランプだろう。
つまり夜の見張りをするなら持って行けよ、と言いたいのだろうがホーネットの視線は変わらずビュウを見ていた。声をかけられたことで視線を下へと外せたのをいいことに、ホーネットは余裕の表情を装ってみせる。
「まさか。そもそも俺は雑用の対象外だろうが、ビュウも許可しただろ?」
「なら今からそれを取り消そうか。ああ、それでも巡回ルートを覚えなきゃいけないな。一緒に回ろうか」
「結構だ。何より今はどちらもオフだろ?」
予想より酔いが回っているようだ、とへらへら笑うビュウへ視線を下げながらホーネットは判断した。同時にこれは面倒だという思いを汲むことなく、ビュウは言葉を返す。
「そうだな、だから俺が巡回に戻る必要はないってことだ」
「だからといって俺の部屋に入り浸っていいとは言ってないぞ。特に今日は手土産もなしだ。だから――」
酔っ払いに事実を突きつけても事態が改善するとは思えない。だが経験上、ビュウは飲んでも飲まれることがない。本人も分かっているのだろう、だからこうして言葉と態度で戯れているのだ。それが今のホーネットにとってはなんとも歯がゆい。
「これくらいにしておけよ」
「この空の色が歪んで見えるかどうかも、すべてホーネットの加減次第だろ?」
一度空へ顔を戻して、振り向くビュウの唇からは笑いが零れていた。見せつけるように掲げられたグラス越しに滲む空の端に、そろそろ夜明けの色が覗き始めている。
「目をつけた女相手なら容赦しないんだが……。立場に感謝してくれよ、本当」
ため息に事実を混ぜ込んで、ホーネットはやれやれと肩を竦めてみせた。そんな彼の本心を知ってか知らずか、相変わらず緊張感のかけらもない笑顔を向けたままビュウは形のいい唇を開いた。
「だから好きなんだ」
「……………………」
額を撫でる夜風を感じないほどに、ホーネットの思考は停止していた。筋肉が硬直し、緊張から生まれた冷汗が首筋から背中を一筋流れる。言葉を忘れた彼の唇が僅かに震える間も、突然黙ったこの状況を楽しむようにビュウの純粋な瞳が動きを捉えていた。
「…………俺も、だ」
やけにかさつく唇からなんとか出てきた返事は、そよ風よりも弱々しいものだった。態度の変化には気づいても、妙な間が生まれた意味をついにビュウは理解できなかった。
「どうして緊張してるんだ? 確かにこの時間に遊泳したいなんて誘われたら困るけど、それくらい目に焼き付けておきたい風景だもんな。よくわかるよ」
「――遊泳か」
ただぼんやりと、ホーネットはビュウの言葉を返す。思い違いだと分かっても、その答えほど今聞きたくないものはないだろう。
だがそれに反してビュウの口は弓なりにしなり、瞳は喜びに見開かれたのだった。
「ああ。この朝と夜が入り混じるオレルスの空。見ているだけじゃもったいないくらいだ、そうだろ?」
「……そうだ、そうだよな」
今日一番のため息とともに、ホーネットはがくりと両肩を落として力なく笑った。それにとりあえず納得してくれたらしいビュウは数度頷く。
「ほら、一緒に見届けようぜ。もう少しで夜明けが迎えにくるぞ」
とんとんと窓枠を叩きながら、ビュウはにこやかな笑顔をホーネットに向ける。勧められるまま隣に立つと、ますます近づいた彼の熱い息が首にかかった。
「もう少し明るくなったらサラマンダーの背中を借りるのも手だけど……」
「……朝いちばんから臭いがつくのは、ちょっとな」
ビュウの言葉をやんわり遮って、ホーネットは困ったように笑って視線を彼から空へと移した。彼にとって、ドラゴンは未だに苦手の対象だった。だからこそ今までもこれからも、触れ合うことのない人生を送るつもりでいたのだ。
だが肝心要のビュウが熱心な視線を向ける相手とあっては話が変わってくる。苦手だと伝えたうえで融和を図ってくる彼の誘いを、極力傷つけないように断るたびに少々言葉を詰まらせ始めていた。
「だよなあ。どうやったら受け入れてくれるんだろうな?」
だが当のビュウは苦笑いを浮かべながらも慣れた調子で問いかけてくる。ドラゴンという生き物を、初めから完全に受け入れられる人間の方がずっと少ないことを愚痴っていただけのことはある。
彼を傷つけてはいない以上、後は自分の心持ち次第なのだと一呼吸置いてホーネットは流れるような動きでビュウの右肩に手を置いた。
「俺は隣にビュウがいることを受け入れた。それじゃダメなのか?」
「……俺がドラゴンになればいいのか?」
「そういう問題じゃないだろう」
本気とも冗談とも取れそうなビュウの言葉。半笑いでツッコミを入れるホーネットをなだめるかのようにビュウはグラスを肩口まで掲げる。そして氷のとっくに解けたそれらをかちりと噛まして、二人は夜更けの味を喉に流した。
この立ち位置に違和感がなくなるまで少しの時間は要したが、ビュウもまた笑顔で自分を受け入れている。そうやって、自分もやがてはドラゴンを受け入れられる日が来るのだろう。そんな予感を確かに抱いて、ホーネットは空の彼方で確かな光を放つ星の輝きを見つめていたのだった。
Until dawn
とりあえず物書き復帰するのに何を書こうか迷った結果のホネビュウです。掌編。
夜の巡回当番をサボるビュウを当然のように受け入れて二人の時間を堪能してるホーネット。ホーネット側からしたら意識してるんだけどな~くらいの関係です。べたべたしすぎていないのが好き。
2022/07/14