その日は珍しく部屋から明かりが漏れていた。
確認のためにドアへランプを向けると、くすんだ銅板に打たれた文字が浮かび上がった。
『男部屋』
「はあ、どうしたもんかな」
それと同時にため息ひとつ。男は苦笑するとドアにはめ込まれた窓ガラスを覗き込んだ。
床には長く伸びた人影と、それを映す光がちらついている。奥に人がいるのは確かだが、部屋の造りのせいで誰がいるのかまでは分からない。
これじゃ覗いた意味がほぼないと思われがちだが、本来なら彼は寝室の手前までなら男女どちらの部屋にも入っていい権利を有しているはずだった。
そうでなくても共に廊下側に並んでいるのは壁だけだ。
「せめてものプライバシーが守られている」と特に女性陣から好評ではあるが、主に貨物船として利用されていたせいか臭気が篭るのが不満だという声も一部からは出ていることは把握している。
「……俺に言われてもなあ」
誰にぶつけようがない意見や不満は、巡り巡ってビュウの元へとやってくる。
それはセンダックに言ってくれ、と何度となく言いかけて、ただでさえ気の弱いあの老人を必要以上にいたぶるのは自分の趣味ではないと思いとどまること実に十数回。
「今日は見逃してやるか。これが溶けたら元も子もないからな」
夜の見回りとしては失格な発言をこぼして、ビュウはくるりと踵を返したのだった。
こん、こん。
――こんこんこん。
やや遅れを取った合図を返そうとノッカーを握ったビュウの手は、そのままぐいと部屋の中に引き込まれる。夜の闇にやけに明るく浮かび上がった光の中に立つ長身の男は、いたずらじみた笑顔を浮かべてビュウの手を取った。
「とんだエスコートだな」
「なかなか良かったと思わないか? 確実性と驚きの両方を取れたんだからな」
事がうまく運んだのが相当嬉しいのか、ホーネットは菫色の目を三日月のように細めてビュウを見ている。あと少しでもすれば鼻歌でも歌いだしそうな、そんな彼の調子を崩してやろうとビュウは早々に手を解いてぐいと足を踏み出した。
「人が悪いな。これで別人だったらどうしたんだ」
「それはそのときだ」
半身をひねってホーネットの隣をすり抜ける。その時でさえ会話を楽しむ余裕がホーネットにはあるらしい。
そもそもこうして会いに来るのも久々で、取り決めたドアノックの暗号も使わないまま月を跨ごうとしていた。だから自分も浮かれているのか、とビュウは胸中で反芻しながら、ホーネットという心の止まり木が変わらずここにあることに安堵を覚えていた。
「それで、今日は何を? いいものがあるとは言ってたが」
「ああ。準備しておいてくれたんだろ」
カウンター前に立つと、その左肩から覗き込むようにホーネットの声がする。同時に伸ばされた手が、保冷庫から二つのウイスキーグラスを取り出し目の前に置いた。
十分冷えた証拠なのだろう、グラスについた水が汗となり白く表面を曇らせ、それをさらに強調したいのか手を離したホーネットは摘まみ上げた指先を赤くしながらぶらぶら振って見せてくる。
「わかった、わかったから。後はこれをだな――」
「冷たい奴だな。うん、黒い……氷?」
子供をあやすような言い方に口を結んだものつかの間、ホーネットの興味はすぐビュウの持ってきた金属製のトレイに移っていた。その上を僅かな水気を持った黒い塊が滑っていく。
「ああ。わざわざ昼のコーヒーを新しく淹れなおしてたから何をするのか聞いたら、明日のゼリーの分だって言うんだ。そこで助言をするついでに自分の分も作ってきたってわけだ」
「ずいぶん用意がいいとは思ったが、そういうカラクリだったか」
呆れたように息を吐きながら、ホーネットはグラスにウイスキーを注いだ。芳醇な香りが辺りに広がり、自然とその匂いを嗅ぐ間は時間が止まってしまう。
その間にもホーネットは今日の昼間のことを思い出す。昼食後ブリッジに現われたビュウは夜の訪問を告げる間、ずっと声を弾ませていた。ただその時は祖国の奪還を前にして浮足立っているだけだろうと思い、久々の事にもかかわらず素っ気ない対応で彼を帰していたのだ。
「……誰に遠慮してたんだか」
「どうした?」
「いや。ほらできたぞ。練乳はないからあきらめろ」
ぽつりと漏らしたはずの後悔を本人に捉えられ、ホーネットは顔を向けるとゆっくり否定した。些細な変化も見逃がすまいと開かれた青く澄んだビュウの目は、突きつけられた現実を前に細められた。
「――だよな。だからいつまでたってもコーヒーがブラックなんだ」
「まさか不満なのか? そんな子供舌なわけじゃないよな」
「当たり前だろ」
ビュウはさらっと笑って答えた。皮肉を言いたげな口元に目を落として、ホーネットは黙ってグラスをビュウの前へ並べた。
「調子の悪いときは正直飲むものじゃない。特に大ごとが続いた後は余計にな」
「心中お察しするね。でもそれを決めたのは誰だ?」
「――俺だよ、悪かったな」
肩を落としてビュウは嘆息した。だが後悔はしていないのか、ちらりとホーネットに向けた目には輝きがあった。
「よし仕上げだ。後はこれを入れて――完成だ」
「なるほど、考えたな。これなら少しずつコーヒーが溶けて長く楽しめるってわけだ」
歌うように言いながら、ビュウはトレイからするすると指で氷をグラスに押し出した。小気味よい音を立てて沈んでは浮かぶ黒い氷は、どうやら彼なりにコーヒーを楽しむための工夫だったようだ。
「しかしこんな夜中に、さらに目が覚めるものを持ってくるとは思わなかったな」
「今さらダメとは言わせないからな、ここに来るまでどれだけ胃を痛めたか」
お互いグラスを片手に、長い夜を過ごすテーブルへと歩を進める。さりげないビュウの言葉の中には、ダフィラでの激闘とその後巻き込まれた奮闘への相当な苦労が伺えた。
「お疲れさまだな。でも俺が留守番をしてる間に、相当美味い話があったと風の噂で聞いたぞ」
「どこから漏れたんだ、それは」
「……内緒だ」
あっさり話を翻して、ホーネットはくすりと笑うと席についた。煌々と照らしていたオイルランプの灯りを絞ると、代わりに机に置いたロウソクに火をつける。輪郭が闇の中へ馴染んでいく中、彼の情報源に感のあるビュウは呆れたように笑いながらも席に着く。
「あんまり絞らないでやってくれよ、最近妙に何かに怯えてるみたいでな」
ホーネットは微かなため息をついた。操縦士という気を張る仕事ではあるが、基本的に彼に大それた悩みというものは存在しない。だからこそ不意に訪れたクルーたちの恐れおののく姿に頭を悩ませているらしかった。
「考えておくよ」
あくまでも柔和な笑みを浮かべてビュウはひとつ頷いた。それがホーネットの目にはどう映っているのだろう。今のところ、互いにとって酒と愚痴を交わしあう仲であるという認識だ。こうして久しぶりの晩酌を楽しみに席に座っているのもまた事実だった。
――今のところは。
「それじゃ、後はご本人様から聞き出すってことで。乾杯」
「何も面白い話はないからな。あ、でもあの時……」
ホーネットがグラスを先に掲げ、ビュウはそれに乾杯を合わせながら話の中心を少しずつずらし始める。
手に取ったグラスの中にはウイスキーとミルクが渦を描くように混ざり合い、その上にコーヒーキューブが浮いている。白と黒のコントラストが明かりに照らされ場の雰囲気を作り上げている。
氷はさらに解け、何事もなかったかのように馴染むだろう。ほのかな甘みを含んだそれを口につけながら、ビュウは間接的にとはいえ手を染めてしまった悪事を上回る良い話が巡ってくるように、と調子のいいことを考えながら話を続けたのだった。
白黒をつけないで
1日がコーヒーの日と聞いて、書きたくなったものその2。ホーネットとビュウです。
なんでホネビュウじゃないんだ……? と思われた方はここまで読んだら大体お察しかと思います。多少なりとも関係を深めていたとしても相手がこんなことをしていたらさすがに考え直すと思うんですけどどうなんでしょう……(当時は深く考えずに依頼してごめんねクルー)
結局この後パピーが生まれてうやむやになるとは思うんですが、アサシンたちの「仕事」は淡々と進む恐怖に彼らのトップであるホーネットは耐えられるのだろうか(別ゲー)
なおウイスキーミルクの元はニッカウヰスキーさんのツイッターを参考にさせて頂きました。美味しそう~!
2021/10/06