「ふわーあ……」
本日何度目かの長い欠伸と伸びが、平和を感じさせてくれる。まばゆい朝日に包まれて目尻に涙を浮かべるその姿は、今が戦争中でありその切り札となる戦竜の手入れの最中だとはとても思えないだろう。
「ずいぶん余裕があるみたいだな、ラッシュ」
「――あいてて! 新年早々舎弟いじめかよ!」
ドラゴンの毛並みを整えるための柄の長い金属ブラシの先で首筋を器用につつかれ、余裕綽々なはずのラッシュはとっさに首筋を押さえて振り向いた。
「自業自得です。ほら、まだまだ仕事は残ってますよ」
「これが終わったら、温かいスープが待ってるよ。だから頑張ろう!」
「子供じゃねーんだからよ……」
口先を尖らせながらも、彼は応援に後押しされてビッケバッケからブラシを受け取った。当人は子供扱いされることを嫌っているが、少しの我慢もきかない所を見るに彼の評価が今年も変わることはないだろう。
「そうだな、今年初めての食事だ。美味しく食べるためにもしっかり手入れしような」
「おーう!」
「きゃふう!」
ほのぼのとした口調でそう宣言するビュウに、二人は声を上げて応える。おおよそ引率としか思えない彼に小さく返事するトゥルースの頬を、ビュウの愛竜であるサラマンダーの温かな鼻先が撫でたのだった。
初夢談義
「……おっ、少し暖かくなってきたんじゃねーか?」
「たくさん体を動かしたからねー。ご飯は…………」
別の意味をくみ取りながら、ビッケバッケはニコニコと振り返る。釣られたラッシュの足元から伸びる長い影は、煙の立たない炊事用の煙突を目にしてがっくりと肩を落とした。
「……ざーんねん! でも落ち込まないでよラッシュ、朝からこんなに良いことをしたんだから、きっと良い夢が見られるはずだって!」
「夢ぇ?」
まだ1日が始まったばかりだと言うのに、ビッケバッケの口からは早まりすぎた言葉が出る。その不自然さにラッシュの思考と表情は数秒固まった。
「……あ、夢占いか!」
しばらくして、やっと点と点が線で繋がったラッシュは手を叩く。その調子にこぼれ落ちたブラシの柄が、くつろいでいるサラマンダーにコツンと当たって滑り落ちた。
「あっ、すまねえ」
「く?」
自身の体から立ちのぼる緩やかな水蒸気越しに、サラマンダーはゆるりとエメラルドグリーンの瞳をラッシュに向けた。目が合ったのは一呼吸の出来事だったが互いに気にすることもなく、ラッシュは改めてビッケバッケに向き直った。
「――んで、なんだよそんな顔して」
「えーっと、ラッシュはドラゴンが新年の縁起物だって覚えてるよね?」
やっちゃった、と言わんばかりの顔をしたビッケバッケから出た季節柄な話題に、ラッシュは何を今さらと言いたげに答えた。
「カーナなら、な。でも今、俺たちがいるのはファーレンハイトだぜ? ここにいるやつらだって他のラグーンから来てるんだから、ひとつの常識を当てはめるのもおかしいと思わねえか?」
「でもほら、去年はどうだった? バレンタイン、ハロウィン、クリスマス――」
代表的なイベントを三つ出したところで、もはやラッシュの口は否定する言葉も封じられたかのように綴じられていた。代わりにへの字に曲がった唇だけが、確かに彼の感情を表している。
「今日が一年の始まりだっつーのも、そもそもカーナのカレンダーなんだよな……」
「そういうこと! でもさ、みんなで仲良く新しい年を迎えられるのっていいとラッシュは思わない?」
相づちを打つように手を合わせて、ビッケバッケはニコリと笑った。が、その口の端にきらりと光るものが溜まっていることをラッシュが見逃すはずがない。
「はあ、ビッケバッケは初夢の中身より初めての飯のことの方が大事だもんな」
きっと彼の脳裏には、食卓を囲む仲間たちとホカホカと湯気の立ちのぼるボウルが浮かんでいるに違いない。思わずそんな想像をして大きく頭を振るラッシュの様を、目の前で見ているはずのビッケバッケはきょとんとして迎えた。
「――ラッシュ、ビッケバッケ、そろそろ体が冷えませんか?」
「おっ、トゥルース。いいとこに来たな」
僅かに止まった、二人の時間。その隙間を埋めるように、サラマンダーの影からトゥルースがひょっこりと姿を現した。その目に映る、ラッシュのからっとした笑顔に若干の困惑を交えてトゥルースは返事をした。
「はあ……。また何か二人で企んでたんですか?」
「なんでそうなるんだよ?! なあビッケバッケ――」
トゥルースにガツンと言ってやれ、と言いたげに勢いよくラッシュは同意を求める。だがそんな彼をまるっと無視してトゥルースに向き直ったビッケバッケは、サラマンダーの巨体の影にいるはずの人物にまで声を掛けたのだった。
「ちょーっと、待っててね。 アニキー! 今ちょっと大丈夫?」
「うん、なんだ?」
「きゃふふー」
やはり、ビュウはずっとサラマンダーと触れ合っていたらしい。当然のように一緒に返ってくる返事にトゥルースと微笑むと、ビッケバッケは小さく喉を鳴らしてから口を開いた。
「あのね、一応確認なんだけど……。初夢って今日の夜見る夢、で合ってるよね?」
「……あぁ、そういうことですか。ラッシュ」
特に絞ったわけでもないビッケバッケの質問は、もちろんラッシュの耳にも届いている。合点がいったトゥルースが彼に向き直る頃には、その手は落ち着きなく袖口をいじっていた。
「……笑うなら笑えよ。せっかくいい夢を見たから今年は絶好調だって思ってたのにな、興ざめだぜまったく」
ブツブツそう誰にともなく当てつけるラッシュの視線は、未だに袖へと注がれていた。
今四人がお揃いで着ている羊毛のコートは、特に誰の物でもなくこの時期の外作業には欠かせない品だ。つまり、今こうしてラッシュがコートをストレスのはけ口にすると、その責任が自分たちにも及ぶことになる。
「で、だ。何の夢を見たんだ、ラッシュ」
そんな懸念が視線を一点に集める中、ある意味場違いな声と姿とが飛び込んできた。そんな彼こそが誰よりもコートを汚し、同時に怒られている事実を当人だけが認識していないらしい。
それを証明するような声をラッシュは救い手だと思ったのか、喜びに口角を上げて話し始めた。
「それがな、聞いて驚くなよ? ……サラマンダーが俺を認めて勧めて乗せてくれたんだぜ! ビュウは、って聞いたら首を横に振るんだぜ? ああ、やっと俺の苦労、も――」
「……どっちにしろ、その夢は叶わなさそうだな?」
「あぁッ!!」
絶句したその瞳に映る、嫌なほどにこやかな青い瞳。浮かれていたはずのラッシュは表情もそのままに頭をがくりと落とし、その場を見守るしかできなくなった二人は視線を交わしながら、どうかこちらに事実の擦り付けがないようにと心で祈った。
が、その場を見越してか鮮やかな赤が彼らの影を遮った。
「くくー」
「励まして……くれるのか、サラマンダー?」
そのつもりがあるのかどうかは当人にしか分からない。それでもサラマンダーはビュウの隣から顔を覗かせ、二三度瞬きをすると温かい舌でその頬をペロリと舐めたのだった。
「ありがとよ。にしてもみんながみんな意地悪だよな」
「えーっ、心外だなあ。ボクだって一瞬間違えてたかな、って思ったのに!」
「信じたい気持ちは分かりますが、そもそも良い夢は話してしまうと叶わないと言われています。今年は少しでもせっかちを治せるようにラッシュは努力すべきです」
ムスっと口を突き出すビッケバッケに続いて、トゥルースが突きつける現実もラッシュにとっては容赦ない。何よりビュウが語らなかった事実をさらりと明かされて、ラッシュは目を白黒させたまま顔を人形のように彼へと向けたのだった。
「……へ? ってことはビュウ、お前」
「いつまでもそんな調子だと、年始からマテライトに説教されるぞ」
「んげぇ、でもこれで回避できたから大丈夫だよな、な?」
二つ目の事実を伏せられていたことに、ラッシュは僅かに睨みをきかせてビュウを見た。だがあっけなくかわされ突っ込むべき対象を見失った彼は、今度は不安に揺れる目を二人に向けた。
「ラッシュが忘れさえしなければ大丈夫でしょう」
「うんうん。今日見た夢は……あっそうだ!」
にこやかに答えるトゥルースと、それに頷くビッケバッケ。すべては丸く収まったかと思いきや、好奇心に満ちたビッケバッケの瞳がすっとラッシュからサラマンダーへと移った。
一同の視線を集めた彼女もまた、突然の指名に耳を立てて彼の発言を待つ。
そうしておもむろに開かれた口から出た言葉に、たまらずビュウはサラマンダーの首筋に抱きついたのだった。
「それなら、今からサラマンダーを貸して貰えばいいんだよ! 現実になるなら可能性も残るし、喋ったことも帳消しに――」
「ナイスアイディアだぜ!」
「ダメだ!」
「うきゃふ?!」
予想外のビュウの行動に、さすがのサラマンダーも驚きに固まっている。普段なら子供かと野次の一つでも入れるところだが、どうにも熱の入った彼の姿に三人は戸惑いの表情を投げかけ合った。
そうして、ラッシュが小さく頷き一歩を踏み出す。線引きが改めて必要ならば、ここで叱られて次の間違いを起こさないのが大切だと判断したからだ。
「ビュウ、あのな――」
「…………ふっ」
遠く低く唸るエンジンの音に、霜を踏む音が心地良い。そこに子供のような含み笑いが混ざり、やがてその声の主は大きく肩を震わせながら笑顔で三人を振り向いたのだった。
「あん? まさかお前」
「ごめんごめん、悪ノリしすぎた。でもいい演技だったろ?」
眉間に皺を寄せるラッシュに対して、ビュウは爽やかすぎる笑顔を浮かべている。腹を立てるエネルギーを溜息に変えると、それは風に白くたなびき消えていった。
「大した隊長様だぜ、ホントに」
白旗よろしく右手をひらひらさせながら、ラッシュは苦笑を浮かべる。ただそれで大人しく引っ込まないのが性分とばかりに、彼はその指を主にサラマンダーに向けてはっきりと告げた。
「でもな! 俺の夢はバラしたんだから、いつでも正夢にしてもらっていいんだからな!」
「ラッシュ! ――すみません、お先に失礼します」
くるりと踵を返し、なぜか悠然とした歩調で去って行くラッシュ。その姿に驚き戸惑うトゥルースは、両者を何度か見比べた後でビュウに小さく一礼をすると急ぎ足で甲板を去った。
「もう、ラッシュもトゥルースもせっかちだよねえ。焦ったってご飯の量は増えないのに」
「はは、ビッケバッケらしいな。でもそろそろ良い頃合いかもな」
二人を見送るのを切り上げたビッケバッケの心配は、どこまで行っても現実的だ。そんな彼の気を惹くように視線を上げたビュウの声に、面白いように釣られてビッケバッケは頓狂な声を上げたのだった。
「あっ!! ……ねえアニキ、もしかしてとっくに気付いてた?」
「さてどうかな? まあ、変わるのは席に着く順番くらいなんだし、今から行っても問題ないと思うけど。なあ?」
「くふふー」
ビッケバッケの疑いの目は、ビュウとサラマンダー両者に向けられていた。角度的に彼らしか煙突が視界に入らないのは前提の上で、動体視力のいいサラマンダーが敢えてビュウに教えていないのではと推測したからだ。
そうでなくても、サラマンダーは全幅の信頼をビュウに置いている。そう理解しているからこそ、食べ物ひとつに感情を左右されない彼女が少しだけ羨ましく思えた。
「もー、サラマンダーはご飯の心配がないからいいなあ。でもそれなら、食べ物の夢を見ることってないのかな?」
「く?」
問いかけの意味をビュウに振ろうと顔を動かしたサラマンダーの視線が、丁度彼の青い目とぶつかり合う。にこやかに笑う彼の手が鼻面に伸ばされ、わしわしと撫でられると気持ちよさに目を細めてしまう。そっと手が離れたところで誤魔化されていると分かっても、今日起こるであろう事の前では些細であることに違いない。ふるふると頭を振る横で、ビュウは視線をビッケバッケに戻し穏やかに答えた。
「ドラゴンは何でも美味しく食べるしあまり気にしたこともなかったけど、聞けるなら聞いてみたいな。案外話が合うかも知れないし――」
ボーッ、ボーッ
「ほらアニキ、準備ができたってさ。サラマンダーの話は後で、だね。 それじゃお先ー!」
各種合図を知らせるための汽笛で話が中断されたのを良いことに、ビッケバッケはさっとそう告げると軽快に走り去っていく。震えるほど肌寒かったはずの甲板は、いつの間に太陽のぬくもりを一面に浴びてあちこちから緩やかな湯気が立ち上がっていた。
「まったくどいつもこいつも。 そういうことだ。俺も……っと」
「きゃふふ」
ため息を一つ漏らして、ビュウは改めてサラマンダーに向き直る。右手を伸ばし目元に触れると、反射的に瞬く緑の瞳は太陽を浴びてきらきらと輝いた。
その輝きから逃れるように視線を外して、ビュウは改めて時間の変化を感じ取った。何も元々、甲板は二人だけの場所ではない。気付けば眠りから覚めたドラゴンたちが、体を温めるために緩やかに空を飛び交っていた。
彼女も例に漏れず、そのビュウの愛情表現を受けながらもその視線は青い空へと向かっている。こればかりはどうもしようが無いと、ビュウはおもむろに口を開いた。
「行っておいで、サラ。遊ぶのはまた後でだな」
「きゃうー!」
軽い別れの挨拶と首筋へのタッチが終わるとほぼ同時に、サラマンダーは甲高い声を上げて翼を広げる。そして甲板を滑るように加速すると、爽やかな風を残して空へと飛び立った。
「――ああ、夢について聞くのを忘れてた」
髪の乱れを直しながら呆けたように呟いて、ビュウはそこでやっとサラマンダーから視線を外した。今頃館内の食堂は彼を待つばかりの仲間たちから不満が出始めている頃だろう。そう想像すると少し面白く、自然と館内へと向かう足は早まっていた。
「でも、結局聞いても答えは返ってこないんだよな。おやじは答えてくれるって言うけどさ」
その受け取り方が分からないんだよな、と諦め半分の息を吐いて、ビュウはそれでも歩みを進める。ドラゴン育成の師匠と仰ぐ、ドラゴンおやじは未熟な自分を笑いつつ、
「試行錯誤しながら、自分なりの方法でドラゴンを理解すればいい」
と何度となく励ましてくれたものだ。
今の自分がサラマンダーの意思を理解するためには、細やかな変化を傍に居て感じ取るしかない。
「だから朝を一緒に迎えても大丈夫だよな、言い訳はもう用意してあるんだし」
たとえそのせいでドラゴンおやじを巻き込むとしても。呟いてからたまらず苦笑したビュウは、残りを一気に吐き出すとおもむろにコートの左袖を掴んで腕を抜いた。
気付けば艦内の暖かい風が頬に吹き付け、遠くには見慣れた三人の姿が見える。やはり待ちきれなかったのか、と零れた微笑みが、ビュウに1日の始まりを実感させたのだった。